LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

論文のコピペ問題

東大で論文のコピペが問題になったそうである。早稲田の問題があったのによくやるなぁ…という感想。

論文執筆の負担が大きいのは分かるし、負担だからコピペで乗り切ろうとするので、卒論を書くことを卒業の要件に(なっているなら)しなくても良いと思う。院に行くなら必須という位にしておけば良い。

ゆとり教育で「自主的に目的を掲げて研究するように言われたが、結局何をやって良いのかわからない」という状況に似ている気がする。教員も生徒も分からない訳で。教養学部とか、そもそも目的意識が無さそうなのに、論文を書かせても仕方無さそうだ。

ライト兄弟とかスティーブ・ジョブスとか、アインシュタインとか、あぁいうレベルを万人に求めても無理だと思う。大抵の人間は他人の模倣で生きるように思われる。ある程度のマニュアルに即して生きていることが心地良いと感じる。『選択の科学』で宗教的な生活を送っている方が幸福度が高いという点にも鑑みられる。だから、そういうパーソナリティの人に対して自主性だの主体性だのオリジナリティだのと言っても仕方が無く、ゆとり教育も成果が見えずに破綻するという状態になったような気がする。

裁判員制度国民年金なんかの「自主性」や「主体性」を要求されても、殆どの人にとっては迷惑にしかならない。ちなみに国民年金保険料が自動引き落としでは無いのは、知る限りでは「税金を払っているという自覚を持ってもらうため」であるらしい。民主主義は国民に賢明であることを求めるが大概、衆愚政治になりがちで理想論に過ぎないと言われている。

私の理解では、国というのは仕事の外部委託である。国民は株主のようなものだろうか。何というか国民としては「結果が良ければ良いので、全部任せます」みたいな感じなのだと思う。内部のことは知ったことでは無い。何というか、パソコンが使えればそれで良くて、仕組みを一から十まで知る気は無い、みたいな。それを国民一人一人に責任があるから「知りなさい」と言うのはちょっと無理かな、と思ったりする。

それはまた別の組織に外注して捜査させるなりした方が賢明である気がする。

「すばらしい新世界」なんかは良く取り上げているのだが、管理された生活に充足している大半の人間に対して、ごく一部のエラーが反感を抱く。反感を抱くのは良いが「問題はお前ら間違ってるからやめろ」としつこく言ってきたり、文化を破壊してきたりすることだろう。

キリスト教徒が過去に行ってきたような感じの文化破壊である。『ナウシカ』なんかは割ともっと切羽詰った話である。

理系なんかは自分の実験を書けば良いのでコピペなんてする必要が無いことも多そうだが、文科系は自分の頭で考える気の無い人がコピペするんだと思う。

ちなみに私の経験では、論文の引用は7:3で、7割は自分の言葉を書き、3割は引用元を明らかにして引用しても良いと言われていた。

模倣を悪という人がいるが、模倣は文化の基本である。模倣が悪であるとされるのは資本主義上の問題である。利権に関わるから悪とされているのであって本来は自由にされた方が流動性が高まり合理的であるかもしれない。模倣はダメだから全部オリジナルでやろうと思っても土台無理な話である。

模倣がなぜダメとされているのか、ちゃんと理解しないで、単に悪だと考えるのは良く無い。模倣するメリットはとても大きいからである。何かを真似なければ人間は猿以下の存在に過ぎないだろう。

なぜ模倣してはいけないのか、と言うと、それは他人の権益を侵すからである。STAP細胞もそうだが、他人の業績を盗み自分の為した成果だと騙り、利益を横から盗むことがいけないのであって、模倣そのものが問題とされているのでは無い。

「火を使って調理するのは良いが、放火するのはダメ」みたいな話である。火がいけないと言って解決する問題ではない。