LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

猫の行動半径

私は云わば猫なんだよなぁ…と昔から何度か思っている。

犬は社会的動物だけど、猫は個人的動物である。

私は基本的に外出したくないし、同じ場所で過ごすことを良しとしている。

猫の日常は自分の縄張りをパトロールすることに終始すると思われる。

私も基本的に同じような気がする。

縄張りの中が世界の全てである。

猫は外に出さなければ家の中だけの世界で充足する。外に出しても一定の縄張りの中で生きていくようだ。

新しいものが自分の世界に沢山入ってくるとそれは猫にとってのストレスになる。

まぁ、要するに「引きこもり」というのも同じようなシンパシーなんじゃなかろうか。

家という世界は自分の縄張りでも、その外は違うのだ、と。

外の世界を自分の縄張りにすることに失敗しているとも言える。居心地が悪ければ離れるだろう、ということ。

世界を広げて行くことが良いことだと言われているが、自分の世界で充足してるし、

それ以上いらないよという人も多い気がする。

特に外で拒絶されることが多ければ(適応できなければ)そういう傾向が強まるだろう。

「新しいものを受け入れる」ということは、それなりの負担をその人に強いる。

そういう負担を、ようは受け入れるだけの気持ちが持てなければ受け入れることもできない。

私のように、大体どこででも拒絶される人間は、縄張りが狭くなる。要するに行動半径が限られて、結果として限りなく狭くなってしまう。自分から閉じこもっているようでもあるが、閉じ込められているようでもある。私にとって一般の人たちの社会は「交通禁止」の看板が立てられていて、通っては行けないことになっている。

メリトクラシーという言葉がある。能力主義のことだが、能力の無い人間は評価されず、あるポストに就くことは出来ない。それが高じると、能力が無い人は、殆どの場所へ行くことが出来ないということになる。能力のある人を評価し「そうでない人を貶める」という仕組みは別の格差と差別を生み出す。

割と積極的に社会的排除を行う仕組みなんじゃないかな…と思ったりする。私は少なくとも、そういう社会にお呼びじゃない。それは専ら健常者のための装置であり、恐らく私は最低限の能力すら持ち合わせてはいない。私からみた問題は、能力のある人を評価するのは構わないのだろうが、一方でそうでない人の立場を守らずレッテルを貼ることが罷り通る部分だろう。

企業の求める人材の能力の第一位はコミュニケーション能力だそうだが、それが無ければ、恐らくどんな場所へも行くことは出来ない。結果的に、そういう人の行動半径が限りなくゼロになってしまうのは仕方ないことだと思う。拒絶される場所へ進んで行こうなんてモチベーションは普通の神経を持っていれば湧いてこない訳で。

人を動かす構造を作らずに、動けと言ったところで人は動かないだろうと思ったりする。私にとっては社会の側に受け皿が無いという問題である。どんな人でも受け入れて貰える場所があるということが人権を守っているということになるように思える。発達障害は分かり難い障害で理解も十分に得られているとは言えない。

それと同様にコミュニケーション能力や自己管理能力に難がある人に対する理解も進んでいない。そうした社会問題が「自己責任」と言われている間は問題が無視されているだけである。何れにせよ重要なのはそういう(落ちこぼれている)人たちが追い打ちのように生贄の羊にされてレッテルや負担を押し付けられ負の連鎖に嵌らされるのではなく、人間的な生活が保障されて安息に過ごせる居場所を社会の中にどうにか作っていくことが肝心だと思う。

まぁ、主に20世紀になって、その手の人権の話は進んで来たのであって、私の理解では、それ以前は割と酷い。昭和の時点でも障害者に対する差別は殊の外、熾烈であったようであるし。

中東では命が限りなく軽視され弄ばれているように感じるし、そういう混沌状態の余波を受けている気もする。だから「役立たずは社会のお荷物で、抱えている余裕はないから死ね」というのが本音なのだという感じの風潮が微妙に感じられる時がある。

例えば、仮にダウン症の子(あるいは発達障害の子でも)を産んでしまったとしても、親の自己責任と言わずに、何とか、社会の側で救ってやれる構造を練った方が良いし建設的だろう。私はそういう経験や知識の積み重ねが社会の資産になるし、多様性になるのだと思っている。少なくとも、そういう親を全力で非難し攻撃して排除して終わろうとするような社会では将来的にあまり碌なものにならないと思う。

なぜなら、そういう症例に対する知識や思想、対応法が積み重ねられていかないだろうから。