私たちは「愛されたい」と思う。
けれど「愛されたい」なら「愛する」必要がある。
けれど愛しても、愛されないことがあり、愛しているのだから愛してと対価を要求するのは愚かだと思う。
私がこんなに尽くしてあげてるのだから、私にも尽くして、というのは愚かだと思う。
「愛する」ことに対価を求めるべきではない。愛さなければ愛されないのだとしても、
「愛されたい」から「愛する」べきではない。
そんなやさしさの行為に報酬を期待して適わずに不満を抱くだろう。それだけ自分を貶めることになる。
「ありがとう」と言われたくて働いているという人がいるけれども、「ありがとう」と言えというべきでも、望むべきでも無い。
ただ偶然に、そういう機会が得られたとして、その時に幸いだと思えば良い。期待さえしていない方が良い。
「愛されたい」なんて気持ちは封じ込めて、ただ「愛する」
愛されたから、愛そうかという人は、やめておいた方が良いと思う。
そういう人は自分から愛する気持ちを持っていないから。
そういう人は優しくされて擦り寄って来ているだけで、私が優しくしなくなったら、
その理由を考える前に私を愛さなくなるだろう。
自分に都合が良い人間を見繕っているだけで、行為の表面をなぞっているだけで、
私の行動原理を凡そ理解する気持ちはそこには伴っていないのである。
相手を理解しようという気持ちが遠い。興味が無いのである。
興味が無いということは要するに愛がない。
そんな人が安易な優しさに擦り寄ってくるのを見ていると気持ちが悪い。
自分の常識を押し付けて、それで理解したつもりになっていたりする。
相手の常識を汲み取る努力を怠っている。だから、それが優しいフリだと看破される。
本当は独善的な人が優しさを取り繕う様を見るのは気味が悪い。
私は「自分は優しい性格です」という人をまず信頼しない。
優しさなんて所詮、処世術に過ぎない。語る時点で馬鹿らしい気がする。
暴力性と優しさは一見対極に見えるが根を同一とするのかもしれない。
暴力もまた処世術である。国は暴力の装置だと言われるが近代国家は国民に優しくすることで上手く統制しようとしてきたらしい。
暴力という処世術は反発を買い、中々上手く行かないものだが、優しさはそれで他人を欺けて騙し通せるのだとするなら、下手な暴力よりも質が悪く他人をコントロールできる。そういうつもりではないのだとしても、他人と良好な関係を保つために優しくしているのだとするのなら、それは他人をコントロールしようとしているのだと思う。
そういうのはコンビニの店員なんかと同じで、相手の機嫌を損ねずに、仕事をスムーズに立ちいかせるためにやっている「優しさ」なんだろうな…と私は思ったりする。そのレベルの「優しさ」に愛とかそういう何かしら特別の価値は無いだろう。
私はよく「優しい」と評されるが、これを否定する。仮に優しいと形容されても、その態度は自己防衛の手段だろう。本当の優しさは相手を愛した先にしかない。愛するということは興味を抱くということである。関心を持ち、相手をよく観察して無償で手を差し伸べる時に少しはそれを優しさと語っても良いのかもしれないが。