LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

最近もまだ個性的であることを求められるのだろうか

10年前くらいは、どうも個性的であることが重要視された。「世界で一つだけの花」は2003年に出ているから、そのくらいである。この曲では「競争」との対比が「個性」であり「個性」があるから「価値」がある、という意味に取り換えられがちな感じだが。

まぁ、今、ちょっと歌詞を読んで見ると、結構慎重に書かれてたから私が主張したいように「個性」重視の曲とは言えない感じかな。

当時はどうも就活なんかでコミュ力・協調性・リーダーシップと並べて、個性(オリジナリティ)が並んでたんだけど、今はどうなのだろう。「特別なことをしなければいけない」みたいな強迫観念があった気がするんだよね。

けど、この歳になると企業が求めているのは、あくまでも「普通の(優秀な)人材」だろうと思う。「個性」や「リーダーシップ」と口を揃えて言うのは、日本企業が欧米コンプレックスだからだと思う。実際には「個性」や「リーダーシップ」が何なのか誰も理解していないのでは無いかと思う。

日本の政府が「個性的な人の研究を助成します」とか「Googleのような企業を作ります」と言っている時点で、それが何なのか「分かっていない」のは明白だと思う。そう言いながら子供には詰め込み教育を施すだけ(あまり最近の教育内容は分からないが)なので。

ショーペンハウアーが言っていたらしいが、

他人の考えた過程を

反復的にたどるにすぎない。

習字の練習をする生徒が、

先生の鉛筆書きの線を

ペンでたどるようなものである。

だから読書の際には、

ものを考える苦労はほとんどない。

読書にいそしむかぎり、

実は我々の頭は、

他人の思想の運動場にすぎない。

少なくとも私が受けた義務教育というのは、こういうことである。それが有意義で無いと私は言わない。読書が有意義だとよく言われるように、これはこれで教育として有意義であることは間違い無いだろう。

問題は、子供たちが教育の中で、いつまでも「お手本を書き写す」作業だけを行っているという点だろう。「自分の頭で考える」という経験を積むには「お手本」を開いたままではいけないのだと思う。

ゆとり教育というのは、いわば「自分の頭で考える」時間を作りましょう、というもので(私の頃のものは)、私はそれが間違っていたとは思わない。ただ指導の「お手本」が無いから「お手本」が無いと教育が出来ない教員たちの多くが匙を投げて上手くいかなくなった、というのが私の所感である。

私は武道の中には、そういうエッセンスがあると思っている。そういうのは多分長くやってかないと分からない部類なんだろうな、と思ったりするし、人によってはセンスが無くてずっと分からなかったりする。特に武道は型をなぞっただけでは作用しないことが多く、その作用の理屈は自分の頭で咀嚼して理解していかなければならなかったりする。

武道に強さを求める人がいるが、武道の本質的な面白味は、理屈を理解するところにある。術理ということが多いと思うが。勿論、中には強くなることを目的とする者もいるが、武道としての専らの研鑽の在り方は力学を理解したいと思う人が武道を学ぶのである。だから武道が相手を殺すような古武術で無くなってスポーツ化しても目的は果たせると思う。術理というのは例えば古武術の動きを介護に利用しようだとか、そういう応用が利かせられるものを研究しているのだから。術理を多く理解した人の中から塩田さんのような人物が現れるのだと思う。だから、あぁいうのは個人の才能の問題だと言われるのである。だが、合気道という方法が無ければ塩田さんは塩田さん足り得なかっただろう。

数学や物理学が無ければ、アインシュタインアインシュタイン足り得なかっただろうのと同じである。皆が学ぶことは出来るが、万人がそのレベルに達することは出来ない。自分の頭で考えるという部分が必要で、それが先鋭化していくと、やはり個人的な問題と化していくように思われる。それが大抵、専門にするということだったり、道と呼ぶものだったりするのだろうと思う。そして、その中で見出されるものが才能や個性である。

それ以前の段階はアマチュアレベルで個性とも道とも呼べないと思う。そう呼称するには習熟が足りないのである。

私は格闘技と武道とは違うものを志向していると思っている。プロレスが強さではなく魅せることを目的にしているようなものである。

理屈を自分の頭で理解するという過程を熟せなければ身にならないし、応用できるようなものにはならないのだと私は思っている。そこに繋ぐ回路(論理)を見出すのが「ゆとり教育」に求められた使命だったように思えるのだが、失敗して諦めたのかなと思う。

少なくとも、その道程を可視化しないと、独自性への道は個人的なものとして閉ざされたままだろうと思われる。せいぜい、お笑い芸人の多くがやるような小手先の発想で考えられた誰にでも出来る素人ネタを「独自性」と呼ぶレベルに留まってしまう気がする。そういうアイデアネタを、政府や企業が求めているのだろうか?

所謂、達人や名人を輩出したいなら「自分の頭で考える」部分を可視化して教育に取り込めないと、他力本願に留まると思う。