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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

感情的に逃げ道を封鎖される

社会

少年が異常犯罪を犯すたびに少年法の改正が叫ばれる。

時に思うのだが、これは、バイク事故が凄絶になるからバイクを無くすべきだ、とか、自動車事故で人が酷い死ぬから自動車を無くすべきだ、というのと本質的には同じ問題なのだろうと思う。

この問題はそれを考える人が「自分は犯罪を犯さない」と思っているので、自分にとっての利益が「犯罪に巻き込まれない」ことだけになり、その結果として「少年法で守られるべきでは無い」という思考の帰結をするのだろう。逆に犯罪に巻き込まれる可能性はあるはずだから…と考えるので厳罰化を望むのだろう。

バイクや自動車の場合、特に自動車の場合、自分が乗るために自動車で何人が犠牲になっても「自動車を規制しよう」「自動車を無くそう」とはならないと思う。擁護者が力を持つため妥協の産物として細かいルールが定められていく。電車の飛び込み自殺を防ぐために柵が設置される、とか、SNSでメッセージを送る際に再確認するだとか、そういう発想が出てくると良いのにと思ったりする。

少年法や刑務所など擁護者の力が弱いサイドである場合、多分、そうした活動が不活になるのでは無いだろうか。物事が良くなるには弁証法的な対立があるとなりやすいと思う。左翼・右翼とか与党・野党とか、そういう表裏の力バランスが崩れると、どうも安直にことが進み過ぎる不安を感じてしまう。

天使と悪魔じゃないけど、綱引きが出来るだけの力量が無ければ、この対立は意味を為さない。そして、綱引きの前提は論理に則ることだと思う。正義という表現は私は嫌いだが、正当性を弁論するのに最も強力なツールは論理的な筋が通っていることに他ならない。問題は論理的な思考能力の低下であり、その結果として対立関係が成り立たなくなる、という風に思う。

正義というのは、イデア的な概念で「論理的に正確無比」であることを期待する場合があるが、現実的にそんなことはあり得ない。論理には倫理がよく混じるし、だからこそ、何かのイデオロギー側に立った論理は一面的な正しさに過ぎないというケースが多々となる。

だからこそ「テーゼ側とアンチテーゼ側に立って、それぞれを肯定する側に立ったとして、正当化の理屈を考えろ」みたいなことが「出来るだけ間違わない思考」をするために、教育方法として導入されていたりする。

本来は、それを他人が担ってくれるのが良いのだが、力関係の釣り合いのとれる場合は稀である。良いライバルが得難いから、自分にそれを課すという話なんだろう、と。但し、社会的な問題は自己完結できないので…。