私が思うに、内発性や主体性というのは無ければ無いで良いものなのではないか。
この内発性や主体性というものが結び付けられるのは大体、仕事に関係する。
けれども、実際には性欲・睡眠欲・食欲といった欲望に結びついているものだと思う。
だから、それらが満たされていれば本来、内発性や主体性というものは沈静化するのではないか。
例えば戦後の貧しい時代の生まれの人、貧しい家の生まれの人というのは、ハングリー精神がある場合があるが、
それは貧しい時代に培われた習慣や価値観の結果だろうと思う。それを内発性や主体性と呼んでいる場合がある。
例えば、絵描きなどは、その行為により脳内に快楽物質が発生するために、それを得るために絵を描き続けるとか、そういう話であって、何かの報酬を得るために「しよう」と思うことが主体性や内発性なのだろうと思う。
逆に何の報酬も期待していない場合には主体性や内発性は生起しないだろう。
仕事に関する内発性というのは、自主的に何かすることを期待されるということを指すことが多いように思えるが、それは主体性や内発性と呼ぶべきものでは無いように思われる。そういうものは「意図的な行為」である。あるいは、その行為によって何らかの報酬を期待して行っているというのであれば、自発性や内発性の範疇なのだろうけれど。
共産主義社会では生産性が落ちるというが、それは労働に対する報酬が一定であるために、ある程度以上の仕事をしても報酬が増える訳では無いと人々が察するために起こるのではないか。この報酬というものは、その適用される範囲を広げれば個人差があるものと言えるだろう。褒められたいから行うということも含まれる。
他人とコミュニケーションを取るのは、そこに快楽的な報酬があるためであることが多いと思う。それと同様に、仕事もやはり報酬を得るために行うものである。但し、そこには想像力を要するために欲望という分かり易い動機からは遠いのである。だから主体性や内発性というものの湧き上がるようなイメージからは遠くなるのであり、そういう呼び方がピンと来なくなるように思われる。
例えば「毎日こまめに掃除をする」という行為が結果として、年に数回しか掃除をしないよりも良いと自覚して主体的に行う人と、そんな主体性は無い人とがいるが、両者の違いは想像力の届く範囲が遠いか近いかということになるのかもしれない。あるいは手間と天秤に掛けて釣り合わないと思っているのかもしれないのだが。