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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

reゼロ 感想 5章

・レグルス戦、シリウス戦の感想

 僕は大罪司教の魔女教連中というのは結局、名古屋で車で突っ込んだアスペの青年みたいな感じなんだろうなぁと思ったりするので、作者がスバルやエミリアに言わせているように同情の余地すらなく死刑とは思わない。オウム真理教の教祖にしたところで私は生まれに対する同情を持つ。サリン事件の被害者に対しては?という話になるんだけれど、被害者に対する同情と犯罪者に対する同情はそれはそれ、これはこれ、というものである。

 順風満帆な人生を送って来た人がある日、何の落ち度も無く足元を掬われるのと、最初から恵まれない環境で育って来た人がなるべくして、足元を掬われるのとは、同じく不幸であると僕は思うのである。そういう意味において、同情は、僕はそれぞれにおいて為す。

 認知症の親に殺されてしまうという事件があったが、それに対する社会の見方は「悲劇」という感じである。その親を「悪者」に仕立てることが難しいと思うから、そうなるのであろう。逆に「悪者」に仕立てられるのであれば、感情の槍玉に上げられるので、都合が良いというだけである。

 大罪司教にしても、レグルスにしろ、シリウスにしろ、その論理が微妙にずれているのは分かるが、今日メンヘラと呼ばれる人たちなんかは大抵そんな感じだし、だからといって別に「お前は生きてちゃいけない存在だ」なんて全否定されたりはしない訳で。それが全否定されるのは、彼らが多数の人を殺害したからであって、彼らの論理がどうこうという話では無い。ただReゼロではそんな考え方と共存できない、という形をとっていて、ならば死ね→殺す正当化として、彼らが大量殺人という罪を犯している、という構図であるために、僕はモヤモヤする。

 彼らが、あぁいう思考をしていたにせよ、他人にあまり迷惑をかけて無ければ、存在は普通に許されるだろうと思うので。何が悪いかっていうと、トリガーを引いちゃった→それに慣れちゃった、ところであって、思想的に多少ずれていて、シリウスみたいなのでも、厄介な権能さえ無ければ別に問題無いんだろうなと思ったりする。

 要は「暴力団お断り」みたいな話である。

 あと「なろう」で多いのは私刑として殺害を肯定する場合が多いことである。一般常識的に考えて、その社会の司法に裁かせるということが妥当な解答だと思うのだが、主人公が独善的に裁きを下すことが多いことが気になったりする。穿った見方かもしれないが、川崎市の加害者少年が少年法で裁かれないらしいのも、オウム事件の加害者が大体極刑に処されるのも、社会的な影響(ビッグニュースであったこと)に影響されて日和見している感を僕は感じてしまったりする。司法でさえ冷静に裁けてるのかな?と。

 レグルスに関しては、割と共感できる部分も多く、それを全否定されると僕もちょっと凹む。権能や妻たちにしていることなどは許されることではないが、何というか「当たり散らしているだけの子供」という感じで、「怠惰」や「エキドナ」とかのように根っからの異常者としての魔女という感じはしなかった。まだパック辺りの方が道徳性がかけ離れてる気がする。そんな訳で、レグルスに関しては魔女教にしても役不足感を感じてしまう訳である。シリウスも割と同じ理由だったりする。彼女の場合、怠惰が自分を愛してくれているという妄想(ストーカー的な)、と、心は一つになれる、という価値観が歪んでるだけで、その上に酷い権能が乗っかってるってだけで、権能が無ければただのメンヘラで思い込みが激しいだけの女である。

 言いたいことは、要するに暴力性さえ無ければ「絶対に共存できない相手」では無いということであり、魔女教=幾ら考えても無意味(わからない)という主人公サイドの言い分には、ちょっと足りない気がする。魔女教でなくて、聖域で出てきた感じの魔女連中なら、その辺の説明は納得できると僕は思うし、上手く書けていたと思うけども。魔女教も異常者を書きたいのだろうけれど、そこまで異常って感じじゃないんですよね。現代社会でもそこらへんにいそうな感じなので。

 問題は、そこらへんにいそうな感じのメンヘラが機関銃やトマホークミサイル装備していて、前科(けいけん)が十分なので割とすぐトリガー引いちゃうってことに尽きるんだろうな…と。だから、何というか。実際的な脅威としては、レグルスやシリウスみたいな境界例みたいな人より、中東のテロリストみたいな人の方が怖いかなと思ったり。それこそ組織だってるし殺る気満々ですし…。

 レグルス程度で「可哀想な人ね。同情の余地も無いわ」と「心の広いヒロイン」言われると、精神障がい者全般にそう言われてる感じがしちゃって抵抗感があったりするんですよね…。結構、心狭いよね?…みたいな。

 何というか、殺人というものに対して「拒絶して怒りを顕わにしなければならない」「絶対にNOを叩き付けなければならない」みたいな暗黙のルールか強迫観念が存在しているような気がする。そういうのが気持ち悪いんですよね。それは憲法9条の話とも似ていて「他国から侵略された際に無抵抗で死にましょう」という人たちと同じ感じ。状況を分別してない感じがするんですよね。どんな状況でも殺人は唾棄すべき行為で許されないとかね…。『半落ち』とか、僕は割と同情しちゃうし分かるんですよ。要はそういうケースをも無視しちゃって一緒くたにしちゃうんですよ。

 殺人って言っても、色々あるんだろうにね。

 例えばの話、難病の少女が安楽死を求めて、それにNOを付き付けるみたいな。カトリックだからそういうのは認められないみたいな風潮がある国だったらしいんですけどね。どんな状況でも自殺はダメみたいな。そういうのは、どうも現実的じゃ無いと僕は思うんですよ。その辺の書き方が雑だと物語がリアリティを失ってしまうんだと思うんですね。そうすると、共感できなくなって来て、物語に没入できなくなり、興が醒めてしまう、という感じになると思う。

 「なろう」の小説はそうなりやすい傾向があるかな、と個人的には思っていたり。まぁ、いいけど。

 あと二つ目ですが、戦闘とダメージの描写に不満があったりします。以前にも書いたかもしれないんだけど…。今回は、リリアナにしてもガーフィールにしても痛みに耐えてゴリ押しする的な描写がね。Fateだと思うんだけど、鳩尾を棒で突かれたらそれだけで動けなくなる的な…。まぁ、Fateも志郎とか明らかにリアリティ外れてますが(苦笑)

 普通、反射的に身体が反応してしまうので、それを抑え込むということは出来ないと思うんですよね。だからリリアナの塔で火炙りにされながら歌うってのは僕は微妙だった。頑張ってる感を出したいのか分からないけれど、違和感しかないというか…。ガーフィールにしても同様である。過度なダメージ描写は「いや、無理でしょ」と読者にツッコミを入れさせるだけである。8つの手を持つ男との戦いの描写は特に微妙で、二刀流=攻撃力2倍的な無理があると思う。

 普通に8つの腕といっても胴と足は1:2なのだから、攻撃は基本4つずつしか来ないはずだし、4つの腕で突き・斬り・薙ぎを同時に放てるか、というと動線が競合するので、そうもいかない。なのでガーフィールが1の攻撃に対し、彼が8の攻撃を繰り出すという話にはならない。というか、クルガンが8ならガーフィールは両腕で2である。噛み付きを入れれば3だが…。

 それと腕だけの攻撃では普通威力が乗らないので、足・腰を入れなければならず、攻撃の際には大抵半身になるものである。ならば、自然4本ずつを違い違いに使うような戦法になると思われる。また、一つの踏み込みに際して一撃が基本となり、攻撃の方向もある程度合わせなければならないのだから、せいぜい片側4本の腕で2系統の攻撃が限度だったりするのではないだろうか…。攻撃は多様になるよりも単調になり読みやすくなると思う。だからこういう相手の脅威は寧ろ手数より質量だったりする。自然8対2の戦力差は、見たまま8対2という訳では無かろうと思われる。クルガンとの戦いでは一つの腕の価値が等価になってしまっていたので、詰まらなくなってしまっていたと思う。

 例えば2刀流の剣士とフェンシングの剣士が戦ったとして、単純に二刀流の剣士が2倍強いのか、という話である。流派としては拮抗する実力であるとして。二刀流の剣士でも攻撃する際には片方ずつ撃ち込まざるを得ないのだから、2倍強いという訳にはいかないだろうし、自分の太刀筋に対する集中も分散する。利き手じゃない方の腕の反応は鈍いのだから、そのことに意識が割かれない訳も無い。だから実際には二刀流のアドバンテージは1.5倍にも満たないだろうと僕は思ったりする。1.35倍とかが妥当な気が…。

 早い話、腕4本で繰り出すパンチは4倍重い?程度に書いた方が良かった気がする…(´・ω・`)