LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

楽しくなくちゃ生きていちゃいけないんですかね?

何が楽しくて生きてるの?

みたいな質問が嫌いなんですよね。まぁ、質問されること自体、嫌いみたいだけど。別に楽しむために生きてる訳じゃないですよ、と。じゃあ、何のために生きてるの?と質問に質問を重ねられても困る訳ですよ。その質問に何の意味があるんだろう、と。人生の意味について僕は結構考えてた時期が長かったんですが「そんなの無い」と思うんですよね。

生まれて来たこと自体、選べなかった訳ですし「何か意味を持って生まれて来たはずだ」と穿ってみる意味は無いですよ。特に意味なく生まれて来たからこそ、個々人は自由だと言い訳できる訳ですし。生きていることに何か客観的な意味が出来ちゃうと逆に個人の自由を損ねるんだろうと思うんですよね。

まぁ、どうでも良いんですが。「何が楽しくて生きてるの?」って質問は楽しく無いことがダメみたいに糾弾されている気がするんですよね。質問の形をとった個人攻撃なのかな…と。「人生は充実していなきゃいけない」みたいなね。突き詰めれば「幸福でなければならない」みたいな。そういう言い方をしちゃうと不幸な人に追い打ちかける感じになるんで僕は嫌いだなと思います。

そういう質問を真に受けちゃう人が、充実している感を盛っているブログを書いたりして、自己顕示したり

するんじゃないかな、と。でも現実にはそんなテンション上げっぱなしでいられるはずも無いし、それは何かの病気ではないかと僕は思うので、現実との乖離にストレスを感じたりして擦り切れるんじゃないかなと思ったり。

現代社会のイデオロギー的、あるいはカルチャー的な理想に沿った生活をしようとしても、人間って生物なんで上手くいかないと思うんですよね。それを押し通すことが正しいと思って押し通すと、どこかしらぶつけて壊れちゃうんじゃないかと僕は懸念します。

じゃあ、もう理想なんかポイ捨てしとけば?と思ったりするし、僕なんかはリアルが詰まらなくても別に良いじゃんと思ったりする訳です。

別の質問としては「家で何してんの?」と聞かれるのも嫌いですね。他人に話して面白いようなことは何もしてないので(´・ω・`)テレビ見たりしないの、とかね。何かしないといけないんですか?と聞き返したい。言外に要求してる気がするんですよね…。やることもやれることも無いからゴロゴロしてちゃいけないの?と。どうも一分一秒を何かしらの行為で埋め立てないといけないかのように追い立てられているような気がするんですよね…。で何もすることないので、って言うと可哀想な人みたいに見られる訳です。うーん…。

何か意味ある行為をしなくちゃいけない、みたいな。それってホントに意味あるのかな…って僕は思うんですが。別に何をやっても意味が無いとは言わないけど、全員が全員生産性のあることを四六時中してなきゃいけないのか、って疑問に思うんですよね。その中にテレビも入ってるんですかね…?テレビを見ることはゴロゴロすることより何か意味があるんですかね…?これを読書とかイメージ良さそうな言葉に置き換えても良いんですが…。

何もやっていない時間というのは無駄で、アニメでも漫画でも読んでた方が「まだ」良かったりすると思いますか?僕はそうは思わないので。僕は寧ろ、そうして空いた時間を計算してギュウギュウにスケジュールを詰め込んで、詰め込めただけ、その人生が潤っていて価値があるんだというような発想をしたがる質問の形式?についていけないのですよ。疲れるんですね。僕に何を期待してるの?って思うので。

まぁ「テレビ見ないアピールうぜぇ」という一派もネットにはいるみたいですが。いや、テレビ無い生活がデフォの人は嫌味でそういう生活送ってる訳じゃないですよ…と言いたい。実際、テレビで暇潰してる人はきっと、そんな自分が詰まらない人間だと言われているように感じて反発するのかもしれないけど。僕は別にテレビの代わりに何か価値のある行為をしてたりしないので。

そういう僕みたいな生きてても社会に貢献しないだろうということで無価値そうな人間を主体性が無いとか意志薄弱だとか内発性が無いとか言って「ダメな人間」というレッテルを貼って救いようが無いという人もいますが、そういう人って僕の見立てでは結構いると思うんですよね。人間行動学的には組織で真面目に働く人は全体の25%に過ぎず75%は結構サボってるって話を大分前に聞いたんですが、そういうサボってる人を非人間扱いし過ぎなんじゃないかな、と思ったりする訳ですよ。まぁ、組織の生産性を上げたい人たちなり、その25%の人たちが言ってることなんだろうと思うんですが。

けど僕は「僕のようなあまりやる気無い層」も普通なんだと思う訳で。「アリとキリギリス」なんてのは良く言われる話で、どっちが「まともな人間」ということもなかろうと。まぁ、僕が「まともな人間」を語るのはどうなのかと思いますけど。

まぁ、要するにみんながクリエイティブになりたいか、と言ったら、違うんじゃないかな、と僕は思う訳で。同時にクリエイティブだからキラキラしてて価値あるのか、っていうと僕はそんなことはなかろうと思ったりする。寧ろ、疲れるだろうなぁと思ってみている。ほんとに楽しんで生産活動に勤しんでいる層もいるんだろうけど、僕は特に彼らが羨ましいと思わないな、という。僕だったらまぁ辛いだろうなーと思うから。

まぁ、なんというか、二項対立なんですよね。自分に価値があるということと自分に価値がないということ。自分が特別だということと自分は特別では無いということが。何れもそれなりに首肯できるテーゼなので、要は話題の中での見方次第で変わる話である、という感じがする。

だから「自分は特別であると同時に自分は特別では無い」ということは同時的に首肯され得るんだろうと僕は思ったりするので。背反しているような気がするけれど、同時になりたっていて、矛盾していないと僕は思ったりする訳で。まぁ、人という客観と自分という主観が同時に存立する見方が僕は他人を人間足らしめる一般的なものの見方だと思うので。

だから、僕には価値があると他人に一方的に言われると、眉を顰めちゃうんですよね。僕にはどう考えても、あまり値打ちが無いから。自分にとって自分には価値があるというのが真であり、自分は特別であるというのが真である。他人にとってその人自身が特別であるということが真であり、だからそのことに配慮しているのであって、他人にとって僕は「自分」ではないので価値が無い場合もあるのだと考えるなら「人間だれしも価値がある」という話は、あくまでもそれはその人自身にとってであると限定しなければならないと思っている。

だから、人によっては他人にとって値打ちの無い人というのはいるだろうという話である。あくまでも自分=特別という主観的事実の価値を周囲に広げて社会的に保証させるために他人の人権に対する配慮が必要なのであって「自分」が無いなら配慮は必要無いという話になる。だから、機械に特別な価値など無いし配慮する必要は無いという話になるのである。けれど、僕は人間であり主体が存在するために、価値を認めて貰えているということだろう。

植物人間になった人に対する対応がまさにこういうことであり、意志を表明できない人にも自意識が存在するとなれば、人権に配慮する必要が出てくるという話である。そうでなければ、私は「自分」の存在を否定されても良いということになるだろうから。