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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

少年法の年齢引き下げには反対だなぁ、という話

選挙法の改正に伴い、18歳で投票できるようにしたから、20歳以下という少年法を改正しよう、という話だと思う。

けど、選挙権の年齢引き下げは政治上の都合であって、生理学的に前頭葉の発達が25歳程度までは掛かると言われている。前頭葉は主に判断・責任を司る部位であるので、その発達が未熟な年齢の間に少年法を引き下げるのは合理的だと思わない。前頭葉の発達が未熟であるということは物事に対する認知機能が十分に育っていないのだから失敗を犯しやすい状況にあるという話である。

どうも少年法改正に賛成の意見が多かったようだが、そうした若者の発達過程に対する考えが欠けているように思われる。経験上18歳っていうと子供である。18歳で結婚は出来るが18歳で結婚するような人間は今時DQN扱いだと思う。

大学生1年生なんていうのは高校生と似たようなもので、全く子供染みている子が多いと思う。センセーショナルな犯罪は定期的に起きているようにみられるが統計的には減少傾向にあるという話であり、凶悪化しているという話も眉唾だと思う。凶悪な事件は稀に起きるが、別に更に強化されて凶悪化したりする訳では無い。頭のネジの外れた人なんてのは定期的に産まれて来ちゃうものなので、現状そういう出来事に巻き込まれる可能性が排除できないというのは、ある程度仕方ないことである。自動車が走ってる限り自動車事故に遭う確率が微存し続けるようなものだろう。

そういう犯罪に対して感情的に世間的な許せないという強い想いに煽られて、なし崩し的に、子供にも自分たちと同じ責任能力を認めるべきだ、罰を負わせるべきだ、という風潮が強くなってきたように思えるが。私にはそういうテンプレ的対応をして私は人間的な感情をちゃんと備えていますよと周囲にアピールして共感して欲しいだけに思える。それは一種の同調圧力を形成しようという試みであり、犯罪という分かり易い悪(本当は分かり難いが)によって連帯感の中に自分が位置付けられたいだけなんじゃないかと思う。そうして自分は正しい人間側にいるのだと確認したいのである。その結果、割を食う悪者はどうなっても構わないと思っている。それは彼らにとっては自分たちのための生贄なのである。

TVで子供のアイドルがパワハラを受けて大人と同じ責任を求められるというような目にあっているようだが、そういうやり口は子供と大人を対等に置こうという恣意が働いているように見える。しかし、実際は大人の方が立場が強いので公平という名で取り繕った権力の濫用になる。

子供の未熟さを認めて大目に見ようとしないことは横暴である。そして、みんなに迷惑をかける、とか同調圧力を利用して恐喝する。この卑劣なところは「みんな」という存在を共犯にすることで自分の責任を有耶無耶にする部分にある気がする。そこにあるのは、大人側の既得権益を損ないたくないという意志であって、やっていることは老人世代が若者のことを考えず自分の利権を守ることに終始して、現状維持に終始し、未来を切り開くことの邪魔をしてしまう構図と同じだと思う。

特に先進国になって教育水準が上がると社会は複雑化し学ぶべき問題は増えモラトリアムの期間は伸びることになる。ぶっちゃけて言えば、30歳程度では人生経験が浅く未だに幼稚な人も多く見受けられる。35歳までは若年者と言われるわけであり、未熟な人間も多い。そういう中で少年法の年齢を引き下げるというのは結局、セーフティネットを狭めて、そこから零れ落ちる少年たちの更生の機会を剥奪するだけのように思われる。

今の趨勢で許されるとは思わないが、大学卒業の年齢(22)まで少年法の年齢は引き上げられるべきだと思う。その上で更生プログラムをキチンと行動療法的に組むべきだろう…と。選挙法の年齢が18歳に引き下げられたからと言って、人間が生理的な問題に融通を聞かせて、それまでに大人になれる訳が無い。選挙法で年齢が3歳に引き下げられたとして、3歳児が責任を持って投票できるか考えて見れば分かると思うが…。

選挙法改正に託けた少年法改正は、単に数字を揃えた方が見栄えが良いという理屈にしか見えない。

それに、明らかに社会福祉の及ぶ範囲を抑制したいのだと思う。結局、社会的弱者を救い上げず、見て見ぬフリをして、助ける余裕が無いから勝手にクタバレという話に思える。まぁ、弱肉強食とか因果応報とかが好みな日本人らしいやり方だと思うが、正直、ヒューマニズムの欠片も無い気がする。まぁ、日本人にヒューマニズムがあるのかどうか私は疑問に思うのだが…。結構、日本人は他人の生き死にに興味無いし淡泊だと思う。それは結局、優生論的な試みなんだろうな…とか。

日本人と西洋人の責任感の違いについて書いたサイトがあったが、日本人は集団への責任は守ろうとするが、集団から個人に対する責任を蔑ろにしやすい、と確か言っていた気がする。要は会社が責任を取ってくれず、個人が責任を押し付けられる羽目になる…という感じだろうか。国親思想というのは社会が責任を持つという思想だが、前者のような日本の悪習によって、そういう社会側の懐の広さみたいなものが失われてるんじゃないかと思う。