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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

誰かに相談して…どうにかなるのか?という話

岩手の中学2年生が自殺した問題。彼は担任にSOSを出していたようで、ネット上では、それに気付かなかったか、無視した担任が非難されているようだ。

まぁ、担任のことはどうでも良いのだが…。とりあえず病欠しているそうだし、その担任を袋叩きにして追い詰めないようにした方が良いと思うが…。そして、いじめをした人間のことが今回あまり話題になってない気がするのだが…。

例えば、例の新幹線で放火した男性を止められる人間もいたかもしれないが、実際は誰も出来なかった…のと同じようなものだと思う。止められる立場にいた人間が明確に分かれば、恐らくその人は非難されただろう。今回はそれが担任だった、というだけ。家でもSOS出してた可能性はある訳で。親は、友人は何も知らなかったの?事態を知っていて、あるいは何か勘付いていて動けたのは担任だけでは無かった可能性はある。けれど具体的なSOSに読めてしまう交換ノートの存在が担任の責任に過剰に焦点を当ててしまっている。

こういうのは、あるいは、ドイツの航空機自殺の話も似ているかもしれない。彼は精神科医に多く通ったが、誰も彼を何とかすることはできず、結果として、大勢を巻き込んで自殺した。まぁ結果が初めから分かっていれば私だって努力しただろうという人はいるだろうが、そういう話は世の中に多いと思う。そういう人は結局やらないと思う。

先見の明、予知、予測…そういうことが下手。関東の地震だって、どうなることやら…。件の担任に機転があれば生徒を救えただろうが、そうでは無かったのだろう。行動して何かを変えるということは勇気のいることで、他人に対しては尚更である。責任を負わないために動かず、選択をしないことを選ぶ訳であるが、何もしないという行動は、それ自体選択である。それは何もせずとも時間は流れるからだ。

私は発達障害者であったが、それを知らなかった。当時、この障害はまだ一般的に広く知られていなかったから、私を理解してくれる人はいなかった。私は周囲から奇異の目で見られ、理解されず、自分でも自分を理解出来ず、問題がどこにあるのかも分からず、相談できる相手も手を差し伸べてくれる相手も誰もいなかった。その後、相談した相手は、件の担任のように、私を尊重して、その実、私を理解しようと努力せず場当たり的な差し障りの無い答えで応じてその場しのぎに誤魔化した。そんな、お為ごかしを真に受けて、私は失敗することになる。相談相手を間違えたということもできるが、ならば、誰に相談すれば良かったというのか?結局のところ、その早計な失敗を招いたのは私が相手に意志決断を任せて頼り切ろうとしたせいでもあり、最終的な決断は私自身が手に入れた情報を加味してよくよく考えなければならなかったのだ。(但し、自分の認知能力に問題があると疑う場合、それ自体妥当な解答を出すための方法として矛盾する…)

一般論では、誰かに相談してくれれば…と言われることは多いが、適当な誰かが周りにいるのかどうかは定かでは無い。文殊の知恵というのは、寄せ集めればその中に誰かしら賢い人がいるだろうという想定に基づく。だから、寄せ集める人間が全員無能ならそれまでの話である。多分。

そもそも、私自身のことを鑑みれば、周囲は皆自分のことで必死という呈を作り上げており、他人の面倒を見ようとする余地を持っていない。それは日本人の性質でもある。日本人は親切だが、その実、他人の事情に深入りすることを厭う。まぁ、家族という単位でプライベートな空間が宇宙のように断絶しているイメージでよく語られる。

その外では大抵の人は表面的な親切はしてくれるが、問題が深刻になると誤魔化し、離れていくような気がする。駅で明らかに困っている人がいてもSOSを求められるまでは誰も助けないことが多い。表面的な親切も駅構内での無関心も日本人的な対人距離の取り方がそうさせている。そういうスタイルだから共に悩みを抱えてくれるような人は少ない気がする。まぁ、私はボッチなので友人がいるケースの親密さが普通どの程度まで及ぶものなのかを全く想定できないのだが…。とは言え、共に悩みを抱えてくれても妙案を思いつかなければいなくてもそう変わりは無い。道を尋ねた相手が道を知らなければ役に立たないのと同じだ。

日本人というのは私からみればそういう社交性なので表面は立派だが中身が空っぽに見える。実際どうかは関係なく。無関心を装うというのもスマホを弄ったりという行動として現れるのだから眉を顰める人もいるだろう。ただ彼らがそういう行動に出るのは近すぎる対人距離の緊張を緩和するためだったりするのではないかなー、と思うのだが。まぁ、家という空間の外における日本人の習性っていうのが、基本そんな感じなんじゃないかと思う。あたり障り無いように、という。配慮・優しい関係を志向した結果として、それを空虚だと捉える人も出てくるかもしれない。

加筆しているので文脈が繋がらないが…、

命の電話なんかも電話を掛けたことは無いが、きっと対応はなおざりだろう…。発達障害関係で似た場所に掛けたことはあるが、正直機械にやらせても出来そうな対応しかしては貰えなかった。この担任の文章の返しも私からすれば似たようなものである。電話口の労働者とこの教師と心情は凡そ同じであろう。

私が言いたいのは、そういう人間にSOSを発したところで上手く行く可能性は恐らく低いということである。個人は余程賢明な人でなければ、あまり助けにならない。つまり、こういう問題はおおよそ一個人の善意に頼っても解決しないのだから、いじめに関しては犯罪行為として警察に届け出るなり対応をマニュアル化するようにしてキチンと動くように周知する方が良いと思う。教育委員会・学校・生徒・PTA・警察が連携して情報を共有する。いじめを早期発見・対応できるシステムを構築しないとダメだろう。

その上で、被害者や気付いた周囲がいじめの被害を相談できる専用の窓口を設置して「いじめられた際にどこに相談すればいいのか」を明確化し、そこに相談できるようにした方が良い。それで問題が起きればその窓口やらシステムに責任を求められる訳で。親や担任という個人に責任を求めようとするスタイルはもうやめたらどうだろう。それは能力の無い者に、なんでお前は無能なんだ!というようなもので何ら建設的ではない。トートロジーである。

親や担任という人たちは無数に色々な人々が存在するので、その中に対応できない人が存在するのは当たり前で、対応できるようにシステムを構築して共有することで初めて般化して対策できると思われる。

13歳の少年にいじめから抜け出す方法を考えさせても、中々上手く考え付く訳も無い。人生経験が乏しいんだから。だから、困った時のQ&Aをちゃんと作って、110番なり119番なりするみたいに常識に組み込んでやる他無いんじゃないかな、と思ったりする。

…とは言え、外に変わって貰おうというのを自分の答えとすると救いが無いように思える。道を歩いていて進行方向上でぶつかる相手をどうするか、と言って、やはり自分で避ける方が早いと思う。最近は歩きスマホなんかもいるし…。

若い頃は特に避け方が分からないし、学校にしろ、自衛隊にしろ、そういう時期に強制的に放り込まれる場所に逃げ場所が無いのが問題である。そういう時に逃げ込める場所が何か無かったかな…と思うのだが…。本来、家がそういうシェルターになるべきなのだが…。まぁ、一つは扉に鍵をして引き籠るのが早いとは思うが…。まぁ、とにかく、いじめなんかは周囲がたすけてくれないようなら関わらない場所へ避難して逃げ続ける方が良いかな、と思う。

担任がダメでも他の教員や教育委員会、警察、児童相談所、弁護士無料相談とか、まぁ、私がぱっと考えるだけでこのくらいはある。子供110番の家に飛び込んで、相談してみるとか。何件もあるから数撃ちゃ当たるかもしれない。と、まぁ、いじめられて憔悴する前にそういうことを頭の片隅に置ければ救いようも出てくるんだけどね。件の少年は何かもう諦めムードですし…。

経験上、日本のことしか知らないんですが、自分から働きかけ無いと救われない、ってことが多い気がする。私はそういう現実が結構、不満なんですが('_')それって独り身だと認知症とか判断力を喪失したら詰むでしょ=死、と思うから。事実、認知症で行方不明になって死亡ってざらだし…。

それを自然の摂理だと言ってしまうのは楽なんですが、私自身が発達障害とか抱えてる人なので、知的障害やダウンの子たちとか認知症とか人格障害とかその手の脳機能の異常による判断能力の低い状態を抱えるという問題が身近に感じるので危機感を覚えます。

そういうのを自己責任で括れちゃう人は強いんだと思うんですよね。立場的にもきっと。いまのところ問題無いんでしょう。まぁ、要は、それは強者の理論なので。持ってる人なんですよ(笑)とまぁ弱者側にいる私には使えない理屈です。甘んじて死ねって自分に向って言ってるようなもんだから。自分に死んで当然って理屈付き付けてしまえる強靭なメンタルは私にはない…(笑)

卑近な話をすれば酔っぱらって前後不覚になった状況で誰の助けも要らないと思う?それが常態になってしまったとしたら怖く無いですか?助けが必要だと思わない?自分で自分の責任が取れないから他人に下駄を預ける必要性が生じることって多分あるんだと思うんですよね。

まぁ、新渡戸稲造が言ってたけど、日本人って結構、そういう部分サバサバしてるんだと思うんですよね…。現実的な見立てよりTPOを優先しちゃう、というか…。情がどうのと言うけれども、それだって身内限定というか。お客様に対しては情じゃなく愛想ですし…。それは処世術ですよね…。

諸行無常の精神の弊害なのかもしれないですけどね…。地震津波で多くの人が死んだが、あまり動じて無いんですね…とか。それは無常の世界観があるからですよ、みたいな。それって現実って非情さをどこかで受け入れてるってことで、特に他人に適用するんじゃないのかなー、とか。他人事にして見なかったことにする…みたいな。

まぁ、何が言いたいかというと、自分で助けを求められるレベルの知能や体力があるなら、自分から動いた方が良縁を見つけられる可能性は高くなるだろう、という話。