読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

家族同然という表現に対する違和感 本好きの下剋上 感想

小説

本好きの下剋上 という「なろう」の小説を読んでいるのですが、結構評判の良い小説で、私も「なろう」の中では一番読みやすいと思っています。ただその中で解せないのは、主人公の「家族」=「本」という価値観ですね。主人公は本狂いなので、そこに「家族」が並びうることの方が私には疑問が強いです。

特に主人公は前世の記憶を持っている。つまり、今生の家族は代理家族のようなものと考えている節があった気がするので。『無職転生』なんかは特にその傾向が強いですが、前世の記憶を持っていると「この人たちはこの世界で自分の親という立場にいる人なんだな」と客観視する訳です。で家族というのは産んだ親が基本的には入って来る。

なので家族とは言いつつも、それは血の絆を感じさせないものだと思う。それを加味してもマインが「家族」=「本」という価値観を持つに至る経緯が分からない。突然本の下敷きにされて親孝行できなかったと後悔したシーンはあるんですが、そんなものは普通3日で忘れると思う。人間の価値観は死ぬか雷にでも撃たれなければ変わらないと思う。つまり、変わった契機として弱いかな、と思う。

妹が出来た弟が出来た→家族だ!→大切にしなきゃ!という思考回路が貴族社会の不平等を割ときっちり書いている部分と比較して浮いてる。シャルロッテという妹も血の繋がりの無い、成人してから顔合わせした親戚くらいの人物であり、大切にする動機は薄い。言わば、可愛いから、くらいしか無い。にしては、大切にしなきゃ、お姉ちゃんとして振る舞わなきゃ!という動機が強く出過ぎている。家族コンプレックスとでもいうべきだろうか…。

神官長のように長い付き合いであれば家族同然と言っても読者にしてみれば違和感は無いが、上述した人たちや、離別した家族に対して何時までも最上の価値を置いているのはやはり浮いている。これはローゼマインの家族に対しても言えることで、この世界では子供の命が失われやすく軽いので、離れた虚弱な娘に対して何時までも彼らが粘着している理由が分からない。父に関しては子煩悩であるとされているが、それも度を過ぎている。将来を選べるトゥーリはルッツを見てそれに続こうと思って良いとしても、衛兵の父だの母だのは、やはり強引に付いて来させた感がある。当時の描写を見ても、彼らがマインをそこまで大切にしている感は薄い。大切にしていても自らの日常を棚に上げてまで付いて来ようというのは異常である。

遠距離関係になった者たちに対する感情が薄れ、近くに関わり合っている人たちに情が移らないのでは読んでいて気持ちが悪い。一度上げた信頼度は二度と下がらないのだと言いたげである。関わりなくなれば大抵は愛も憎しみも等しく薄まるものだ。下剋上させたいのに、家族を何時までも登場させ続けようとするあまり、どうも不自然な感が否めない。

父親として当然だの母親として当然だのという話も割と良く出てくるのだが、家族や親とはこういうものでなければならない、というステレオタイプが出てくる小説は読んでいて辛いものがある。ブラックジャックよろしく母親か父親の素晴らしい一面だけが焼き付いたか、もしくは、家族に恵まれず理想を抱いているか…。「無職転生」なら父親は息子のために命を投げ打って漸く父親として認めてもらえた。というかそういう系は死んだから当人とそりが合わなくてももう問題無い、という感じであろうが…。ルーデウスには「そだしす」の息子を見習って欲しい(´・ω・`)

母性信仰とでも言えば良いのか、母親は子供を愛して当然だ、とかそういう系の考え方が日本には多い。父親は家族サービスして当然だとか。孫は可愛いものだ、とか。孫の顔を見せてやりたい、とか。etc。私から言わせて貰えば、常に口を開いていないと落ち着かないから何かしら口から言葉を発していないといけなくて、過去のデータサンプルから適当に選んで口に出してみてるんですよね?という感じである…。口の筋肉のストレッチか何かのつもりだと思う。

要はテンプレ応答集にそういう熟語関連が載っていて、普段の会話で適当にそういう話題振っとけばOKだと思っているんじゃないだろうか。年齢層に応じて、そのデータが最新のものに更新されていないので、若者とのコミュニケーションに不都合が生じるとか…。問題は何の批判も無く友達100人できるかなと同じレベルで思い込んでる人がざらにいるということだろう…。まぁ、顔を知ってる人は100人くらいいるかもしれないけどさ…。

日本は宗教上、家族というものに特異な価値観を置くように見えるのだが、置き過ぎるために近すぎて互いにぶつかり合い侵害し合ってしまうような気がする。親しき中にも礼儀あり、という言葉は日本の家族にこそ必要じゃないかと思う…。

モラルを持っていなければ、理想の親子関係が自然に構築されるなんて考えるべきでは無い。我々は自然という言葉が大好きだが、その結果、台風や津波や火山や地震に見舞われている訳である…。自然の親子関係を見繕えば、家計のために子供を産む・自然に子供を愛せるはずだと信じたが子供を愛せない・出来ちゃったから仕方が無い・自己実現の人形にしようとする・子が親を殺し、親が子を殺す、そうは言わずとも不和。ステレオタイプ的には男性は母親が好きで父親を嫌悪する。女性は逆であるとか。まぁ、オイディプス的な。

自然に、というとそんな感じが私的には自然であり、家族全員の関係が上手くいってるという人をあまり知らない。敢えて言う必要も無いから話題に上らないだけなのかもしれないのだが…。

私は自分が健常者だったら…?とも思うのだが、だからといって、自然に理想的な関係が構築できるとは考え難い。要はマインのように家族という言葉でひっくるめて、だから大事ということには無理があると思うのである。

私は「だから」家族同然という言葉に反感を持つ。家族だから大切に思える訳では無いのだ、と。家族でも他人と同じか憎悪している場合もあり、家族というものは集団の一形態に他ならない。それをそうではない特別な集団なのだと主張するようなものが私は嫌である。家族だからなんて変な固定観念を形成しかねない言い回しを使うより個々人を自分が好きか嫌いか・大切にしたいか、そうではないか、で必要十分だろう。

家族だからといった時点で恐らく文脈において責任や義務を想像させようとしているのではないか。家族だから養わなければならない、家族だから面倒を見なければならない、とかそういう風に。~しなければならない、のである。個人の希望でそう振る舞っている場合には「~したいから、~する」というべきだろう。

直截に言いにくいために敢えて、婉曲な表現を用いているのかもしれないが、言葉に引きずられて、義務や責任でやっている風になってしまいかねない。その行動が好意からなのか責任と義務からなのか、ハッキリしていた方が私は良いと思う。というか、この作品では少なくとも家族だからという表現が最早、義務感や責任感から来て無いとは言えないと思う。そういう表現は本人すら訳が分からない問題に突入する原因である。

仲間というのも集団を指す呼び名である。友達というのは私の定義では集団ではなく、特定の他人との関係を指す言葉である。だから、仲の悪い仲間はいるかもしれないが、仲の悪い友達はいない。仲が悪くなった時点で友達の定義を外れるからである。とは言え、一時的に仲が悪くなったりするだろうし、それが原因でお前とはもう友達じゃない!という風に友達枠から外れる課程はあったりするかもしれないが。

仲間という呼称が「そこに信頼関係が成り立っているはずだ」という誤解の元なのだとすれば、グループと言い換えれば良い。私には仲間はいるが、友達はいない。それは私の障害が信頼関係を築きにくいためである。ちなみに性格や人格も問われそうだが、脳の障害の場合、性格や人格は障害と不可分であり語るのは難しいと思う。

例えば、(障害で)足の無い人はサッカー選手にならないだろう。それと同様に、性格や人格はそれ自体が身体と切り離されて真空に浮いている訳では無い。心身二元論みたいなものがあるけれども、あれは思考実験である。個人的には人間機械論とかの方がリアルである。

人間と動物、あるいはアンドロイドとを分けているのは、我々が人間である、という一点においてではないだろうか。まぁ、そういうのは「猿の惑星」なんかでも描かれてるけど。「人間だから、人間を中心に序列を付けているのだ」と考えるのが自然だと思う。私は差別主義者だと何回かはブログで述べた気がする。

結局、道徳の問題は我々の分別の付け方である。そして分別とは差別でもある。私とあなたとの間にどういう境界を引くか、それが肝心なのだ。「差別をしないことが絶対に良いことだ」というのは目も耳も鼻も無いに等しい。動物はどんなものでもその成長の過程で分別を付けることで世界を学び生きる術を学んでいく。その成長発達のあるいは価値判断の根底的な概念を否定するのだから「差別しない」ということは成長発達の否定であり思考の停止である、と私は思う。