LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

Charlotte 3話 感想

暴力的な描写が多かった。幾つかは死に直結しそうなほどのもので、それを「なんてことはない」風に描くのはどうかと思う。

救急車を呼ぶかどうか脅す場面は最早犯罪ですし…。補導されて仕方の無い行為です。

今回のヒロインの女の子にしろ、調子乗って死んだ女番長という感じで、無法には無法をという形の解決方法ですし。割と引いちゃう部分が多いかな。不良ものに適性の無い私はちょっと次話以降視聴を考えてしまいます。

主人公は転入以降、物理的に痛い目に遭うことが多いですが、どう見ても「いてー」で済むものではなく、性格がアレだからといって、扱いが酷いと思う。3話も言うなれば分かり易い悪者がいて、だからそいつらに暴力を振るって脅迫しても問題無いという感じに私には伝わった。

リアルの話だと安保理で肯定的発言をした教授に殺人予告(脅迫文)が送られて来たという事件があったそうですが…。「正しければ何をしても許される」と考えているように見える行動を取らせるのは安易で良く無いなと思いますね。この事件は犯人が「自分は正しい」と思っている訳ですが…。

主人公側が正しいから住居不法侵入も問答無用でタルやタンスを開けても、魔王を司法的に裁かずにぶち殺しても許されるというモラルの範囲から出られないシナリオは私はちょっと楽しめなくなって来てますね。本気でそのレベルでしかシナリオを書けないのなら、私は遊べないなと思う。

それは「ワールドティーチャー(異世界で教育者やる)」とか他にも「なろう」の多くに見られるレベルなんですが「自分(主人公)が正しい」というルールの世界を構築しようとするんですよね。そして、ストーリー的には戦いが欲しいから相手が必要になり相手は「悪」であることが手っ取り早い。「悪」だから殺してもどう粗雑に扱っても問題無い。この最後の「悪だからどう扱っても問題無い」というのが私は気に入らないですね。

それは、その世界観のルール「主人公が絶対的に正しい」が成立する上での話なので。それはどこまでいっても作者都合のご都合主義で「作者の思い描く正義と悪を読者側に無条件に肯定しろ、でなければ見なくて/読まなくて良い」と言ってるように私には思われる。少なくとも作者はそれを言っちゃいけないと私は思うんですけどね…。

要は「悪」だからという理由で主人公サイドは相手側の人権を踏みにじっても良い訳ですね。でも私たちの現実ではそれは許されて無いし、私刑といって罰されることになり兼ねない。その辺を越えて制裁を加えることを小説で許す行為がカタルシスで楽しいのかどうか分からないんだけれども、私はそういうのは楽しめないかな、と。

いじめっ子の母親が虐められて自殺に追いやられたという事件がありましたが、そんな感じかな…。いじめに加担してる気になっちゃうんですよね。特に小説だと都合よく「悪い人物」が形作られる訳じゃないですか。それって、サンドバックに嫌いなヤツの写真貼って殴ってるようなもんですよね。相手には反撃する能力も無い=主人公側の勝利が予め決まっている、訳だから…。

書くのは楽なんですが、そんなものを読みたくは無いんですよ。そういう正義と悪で語られなければならない正当性みたいなものを安易に塗り潰して書いてしまう程度のシナリオは読んでてゲンナリするし、逆にきっちり描こうとしてくれていると好感が持てる。日常系とかゾンビ系とか思うに、作者に「正義と悪」というようなハッキリしない概念を描き切る能力が無いんじゃないかな、と。だからはぐらかして書ける分野に行こうとするんじゃないかな、と思うんですよね。それはやっぱり逃げてると思うし、本当に作家になりたいんだったら、議論を逃げちゃダメだと思います。でなければ、その人は作家になりたいんじゃなくて、ツイッターで思ったことを呟いて「いいね」貰いたいという位の人だと思う。

ネットで叩かれる左翼ってのは大体そんな感じな気がする。ただ総理大臣の面相が悪いから戦争に突っ走ろうとしている気がするからという理由だけ何となくデモをする、っていう。それは議論を避けて討論から逃げてる人もいるんじゃないかなーと思う。運動みたいなもんで。そのインタビューの若者は実際「頭が悪いから分からないけど」と言ってるし。分からないなら分からないという立場を取れば良い。

実際、物を書こうとすると分からないことが沢山出て来るんですよ。それに一々立ち向かうのが作家で、論点から逃げて書ける部分だけを切り取って都合よく書いてしまうのが只のライターだと思う。私は私のいう作家とは程遠いですけどね(そもそも目指してない訳ですが)。

すぐ疲れるし(´・ω・`)進歩するより日々退化してる気がする…。じゃあ、どの口が言うのか、という話ですが。まぁ、作家、作家と言ってるのは私のシナリオライター等に対する理想のイメージだと思ってくれればいいかな、と。こういう人の作品なら読みたいな、という。

私が時々読んでるブログで進歩は疲れることだと書いてましたが、作家ってのは日々進歩しようとするんで、基本的に疲れるんだろうと思うんですよね…。そうじゃない人は私からすればただの書き手です。感想文なら私でも書けますし…。

「哲学者になりたい」って人がたまにいますけど、大抵は日常が不満の連続だから「言いたいことだけ言ってたい」って誰かに自己肯定して欲しいライター(?)の人が多い気がする。それはやはり他人と討論して議論する気が無くて、都合の良い部分だけ言って言い逃げしたいと思っているなら、その時点でプロでは無いと思う。

きちんと筋を通して話せているか、考えられる人じゃないとダメですよ。他の誰が良くても自分が良く無いって人じゃないと哲学者気取っちゃダメだと思う。哲学者ってのは批判家なので我儘を通す人じゃないんです。思想は自由だから他人に筋が通っていないと言われても全く構わないってんなら、それは妄想家です。宗教家とかなら上手くすればなれるのかもしれないですけどね…。正しいかどうかは別として。

それが仕事として成り立つかどうかとは別のことですが。ニコ生主みたいなものでも人に拠りますが仕事として成り立つ例もある訳ですから。

私は何というか、プロという場合には生計をたてられるのか、という以前に、その道に精進する気があるのかないのか、という意味合いを含む気がする。谷亮子が現役の頃は1日稽古しなかったら3日のブランクになる、ようなことを言ってた気がするんですが…。格闘技でもそうだし、将棋でも、ピアノでも、スポーツでも同じことで、プロというレベルには日々の探求や鍛錬、精進というものが付き物で、プロって呼ばれる人には何らかの基準(こだわり)はあるんじゃないかと思う。何というか、それって私のイメージでは例えばイチローレベルの生活ですよね。松井とかでも良いですけど、何らかの合理化しようという観念があると思うんですが。

小説で言えば、小説という競技の選手として技量を高めようと日々精進を怠らないとか、そういう道を志す人を私はとりあえず作家と呼称する訳ですが…。村上春樹は小説を書くことを走ることと例えてますが…。きっと、想像するにあまり気軽なことでは無いんじゃないですかね。達成感があっても。

金になる=評価される=作家と呼んでOKみたいのは私は認めないです。まぁ、私に認められなくても実害は無いのですが(>_<)「本好きのローゼマイン」さんいるじゃないですか、私はあれは本好きとして認められないと思うんですよね。私は別に本が好きでも嫌いでも無いんですが…。あれもこれも全部良いって意見は見境が無さすぎると思うんですね。

本当に好きな人は自分の嗜好を語りまくるんですよ…。つまり、好き嫌いに煩いんじゃないかな。そのこだわりが細かくなってくのがマニアなんだと思うんだけど。

まぁ作り話の主人公だから別に設定上の本好きを通して貰っても構わないんですが。実際にはああいう人は本好きとは呼べないのだ、と読み手は現実の事情を考えてツッコミを試みた方が良い気がする。じゃないと「子供好きだから学校の先生になった」→「現実は違った」みたいな現実の失敗をしでかすことになる。

私は「動物が好きだというかもしれないけど、躾がなっていない動物は嫌い」とか好きの中に好き嫌いってのはある。本当に好きなら認められないような「こだわり」があるのだと私は思う。それがなくて「どんな子供もどんな人間も好きだ」という人は好きという言葉が軽薄なんだと思う。そういう言葉は取るに足らない。だから、好きなことを仕事にすると苦労するとか言うのかもしれない。好きなことの中に他人と行う都合から自分が否定する部分が入り込むかもしれないから。

本好きを語るなら寧ろ委細に拘りを持ってた方が良い。「どういう本が好きだ」とか。間違ってもどのジャンルも好きだ、などとは言わないだろう。例えば、犬が好きなら、やっぱり犬の中でどういう犬が好みかって考えてブリーダーなら交配してくことになる訳ですよ。「なんでもいい」ってのは寧ろどーでもいいってこと・分からないってことです。

ニコ生主とかユーチューバ―とか芸人とか誤解しがちなのは、アクロバティックなことをして、一発当てれば良いと思っている人が少なからずいるということ。そういうのは仮にそれで稼げても、私の価値観上プロではないので…。逆に困窮してもプロと呼べる人もいるかもしれない。死後に評価された絵描きとか。そういう評価されない人でも生き様がプロフェッショナルな人は知らないだけでいるんだろうと思う。私はプロ意識の無い人よりそういう人の作品を見たい・読みたいってことですね。

ヒカルの碁」で競争をやめてしまった棋士棋士失格として描かれる部分があったけれども、私は別に失格とは思わないですよ。食べるための仕事でも人間生きていたら疲れる訳で、仕事=プロを求められたら結構多くの人が脱落すると思う。それは日本の悪いとこだなと思うんですが。プロじゃないと仕事しちゃいけないの?っていう。仕事をしているならプロでなければならない、という押し付けを感じた時期があった気がするんですが。私のいうプロっていうのは学者並の探求者の方を指すので一般の方はその中に入れないので。

きっと、プロとアマチュアしか言葉が無いのがいけないんでしょうね…。そして、言葉にかかる思惑も私の使ってるそれとは違うので。プロというのは和製英語で本来のプロフェッショナルという意味あいでは無くなってるのかもしれない。

そのヒカルの碁曰く「ダメ棋士」も別に素人に指導するくらいの技量は多分ある訳だし、それで生計が成り立つなら良いと思うんですけどね…。性格もダメに描かれるからダメなだけで。求道精神と人格は比例しないと思うんですけど、そう思いたがるところがありますよね。偉人とかいう言葉がいけないのかもしれない。

ヒカルの碁の世界ってなんか神の一手をみんな目指してるしそうじゃないヤツはダメ、みたいなところがあったような気がしないでも無いんですよ…。主観全開ですが(´・ω・`)でも私はそうじゃないですし、それでも例えばイチローとか羽生さんとかいう凄い人のプレイは見学したいなと思う人なので。

例えば、社会はそういうプロフェッショナルであることを私たちに求めるんですが、実像として違うと思うんですよね。「女性が輝ける社会!」とかね。寧ろプレッシャーを感じる訳で。ああいうのを一々真に受けて頑張らない方が良いと思うんですけどね…。そんな頑張れる人ばっかじゃないでしょ、という。

「健康な老人!」を求めるのもやりましたけど、実際は介護と医療費と認知症の話ですよね…。あぁいうのって、声をかけて一定数なびいてくれればそれで良いんでしょう。だから、真に受けやすい人はあまり流されない方が良いと思うんですよね。良い例が、変な人を募集して研究費助成するとか…。要は集まれば良いし集まらなければ集まらないで良いや、みたいな。

でも、その手の言説を流すのって、そこまで頑張らない人を自己否定させる向きがあるので、実害が無ければ良いと思ってやってても、害がきっとあると思うんですけどね。

プロフェッショナルとかいう人も存在する程度って、そのくらいの「期待するレベル」だと思うんですよね…。それともそんなにみんながみんな意識高くて活動的なのだろうか。そういう世界で生きていけない私が否定しているだけだというのか…(>_<)ま、まぁ、私みたいな人間はそもそも少数派なのだけれど…。