LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

私はあまり言葉を信じていない

「話さなければわからない、伝わらない」そんなことを何度も耳にする訳ですが、私はそもそも言葉にできないんですよね。

言葉にすると、それはピンとこない表現で、意図しているものからは離れているように思える。

自分の障害の特性から考えても、脱線していくばかりで、話の内容は中々収束しない。話せば分かる、と考えるということは、自分で伝えたい内容が把握できるだけのものが自分の中にあり、表現できる方法も持っていると考えなければならない。

一度見聞きしたことは再現できる、とか、論理的な内容は聞けば考えなくても分かるはずだ、とかいう妙な思い込みがあって、そのように考えているように思える。これは宗教的な価値観だろう。思いや気持ち、感情というものが言葉として自分の中で具体化しているものだ、という前提がある。けれど、言葉というのは基本的に表現のための比ゆ的表現である。

言葉自体がシンボルであり象徴である。日本語が象形文字であることは知られているが、要は元は写し絵である。

自分の気持ちを表現することは実に知的な作業である。だから、個々人の能力によって差があり、うまく表現できないものもいる。赤ん坊や幼児を考えれば分かりやすい。表現できないということはストレスになるのかもしれない。成長したからと言って、誰もが完璧な水準に至る訳ではない。

私は正直、自分の考えていることを人に自分が納得のいく形で伝えられる自信は殆どない。話の内容は散逸で、話の最初から忘れていく認知の問題があるからだろう。気を反らせば話ている内容自体を瞬時に忘れてしまえる。だから、会話自体に満足感を覚えることができず、集中力を必要とし、ストレスが多く、話したいと思えないのかもしれない。

会話を創造的な行為だと考えるなら、自分で覚えていられないようなものを好ましく思える訳もない。内容を整理することが難しく、扱い切れないのである。要は操作性の過酷なゲームをやらされるようなものだ。3DSで連打の操作が多いゲームをプレイすると腱鞘炎になりそうな気がするが、私にとって「会話」は似たようなものである。訓練を積んだところで、連打すれば指を痛める構造上の問題なんじゃないか。疲弊するしそのうち耐え切れずに放り投げたくなる。モンハンなら3DSの構造が操作に向いてないのである。かといって私というハードウェアを買い替えることはできない。3DSは放りだしても良いだろうが…。

私は会話に対する妙な思い込みを他者から強いられているように思える。例えば、耳が聞こえなくても筆記や手話によって完全に意味的な代替ができると考えるようなものだろう。

特に精神障害の場合、それは難しいのでは無いか。サイコパスの人間に情が通じないというステレオタイプがあるように、発達障碍者との意思疎通には何かノイズがあると考えた方が良い。表面上の意味が通じ合っていたところで、互いに納得している部分は違うのではないか。

認知症の患者が会話に苦手を感じ消極的になっていくように、自分を顧みることのできる発達障碍者は会話に不自由を感じストレスを貯めざるを得ないのではないだろうか…。慣れて気にならなくなる水準に出来ないから、そのうち疲労骨折をするわけである。

私はだからこそ会話をコミュニケーションの至上か唯一の方法と崇めたてるような常識を苦痛に感じる。したがって、外に出たくない|д゚)

社交性というものに会話を強いられるためだ。会話が苦痛な人間がいるということについて、社会の認知は進んでいない。理解されない。病気であり正常な状態ではないと思われるようだ。会話できなければ生きていけない気がする。普通の人間がそんなことは最低限だと思っても私としてはかなり困るのである。正直、死んだ方が楽になれる気がするレベルだ。

吃音の人なんかは、類似の問題を持っているんじゃ無かろうか…。

私はそういう状況が緩和されれば良いと思っている。例えば(知的障害の伴う)自閉症の子供に対して論理的に話かけてもあまり通じないが、一緒に遊んだり、嬉しい感情を向けた方が伝わるということがある。人間相手のコミュニケーションだからといって手段を会話ばかりに求めたがるのは如何なものか。

「話し合えば分かる」という理屈の過剰な崇拝は今日少し減ったように思えるが、だからといって話し合う以外のコミュニケーションの模索が進んでいるようにも見えない。発達障碍者はどうも、なまじ知的障害が見られないことで、サービス従事者が会話や会話による積極性を持つことを強いてくる傾向がある。私はそれが苦痛だし、それを良いことだとは思えず障害に対する無理解なのだろうと思っている。

善意の取り繕いと無関心が彼らにとって楽な処世術である。障碍者を理解しようという場合、あるいは歩み寄ろうとする場合には、そのおためごかしには意味がない。営業スマイルと同時の無関心か自分の(自立とは何かという)理想の押しつけ、というスタイルが多い。臨床の資格を持っていれば対応は良い場合が多い。本の数冊も読んでくれればいいのにな…。

そこから何が言えるか考えてみると、対応には知識が無ければダメだということだろう。母性も同情心も自分と異なる相手に対する理解と対応にはそこまで役に立たない。自立支援系統はケースワーカーにしても専門家じゃない人間が多く精神障碍者がサービスに満足できることが少ないと思う。

正直、社会がそこまで成熟していない。まぁ、言ってもどうしようもないことだと非難されがちだが(苦笑)

優しさや同情が必要無いとは言わないが、それだけで相手を理解できるか十分だと考えている人が多い。

それが間違いであり、それだけでは理解しようとしてもできないのだということを知ってほしいと思う。

正直、お百度参りをしても障害に対する知識は得られないだろう。それは理解を投げ出したいのだとも見受けられる。

一般的に最も簡易に対応の知識を得る手段は本であり、少なくとも、そうした労力を払うことが必要だろう。

正直、おそらく勉強を避けたいから優しさや同情で何とかして貰おうという人が多いので、

こういうことは自明であろうとも言われなきゃピンと来るものでもない。

ググれば分かるのに人に聞いて「ググれ」と追い返されるみたいなもんである。

そうしたくない気持ちが、手段を思考から遠ざけてるので、いつまでも本を手に取らないのだと思う。

勝手な想像ですけど。

発達障害という障害を例えば説明しろと、その支援関係者に言われるということは、

ガンになってガンがどういうものかを説明しろと、医者に言われるようなものである気がする…。

対応法を聞かれるということは、治療法を医者に患者側が説明しろと言われるようなもののような気もする。

障害を理解させるためにそうしなければならないらしい…。うーん。

正直、私には発達障害がどういうものなのかわからない、というかすぐ忘れるし説明もどうすりゃいいんだか、である。

本人なのに分からないの?と言われるわけである。少しはものを考えてから発言してほしいものだ…。

自分がインフルエンザにかかっても風邪かインフルかハッキリ分かるものだろうか…。

そもそもインフルエンザについてキチンと説明できる人がどれだけいるだろう…。風邪も然り。

せめて支援員を名乗るなら説明を求めないで欲しいなぁ、と思ってはいけないのだろうか。

認知症の人に認知症が何かと尋ねるみたいなものである。

自閉症の人に自閉症が何かと尋ねるみたいなものである。

サポートしてくれると聞いたから伺ったのにね…。

正直、困惑させられるので帰りたくなる。