いい加減、家族に理想を求めるのはやめたらどうだろう…。
高槻の事件で私はそう思った。
被害者の親を叩くコメントがネットで多く見受けられたが、私からすれば、不可能を可能にしろ、と言われてるようなもんである。
その人の能力以上の「できないこと」を要求しているのだから。
大人や親というラベルに完璧や常識を求めすぎているようだ。
私は障害の特性から家族関係やましてや結婚なんて諦めているが、普通のコミュニケーション能力を持っている人は家族関係をむしろ特別視しているのかもしれない。発達障害者は情を感じる機能が乏しいため、近親にさえ冷淡だとか、そういう話で。
大人も親も記号に過ぎず、いるのは育ってきた環境も持って生まれた能力も何一つとして同じではない個人ばかりなのだ、という捉え方を一度して欲しいと思う。
自分ならできる、という基準を他者に当て嵌めても無意味である。
少なくとも私は他人と十分にコミュニケーションする能力なんて持っていない。
同じように常識や教養を持たない人もいるだろう。
そういう人間が大人や親であることは十分にあり得ることで、
それについて、普通の親、とやらと比べて非難したところで意味が無い。
私の親が私に普通の子供であれば良いと望んだように、それは不可能なことである。
それが何であれ、その人に「できないこと」を要求され望まれることの理不尽に気付いてほしいと思う。
普通はできるから、当たり前に私にもできるのだろうか?
理屈として間違っていると言わざるを得ない。私は普通では無いし、
当然なことは絶対ではないのだから。
理不尽な非難を浴びせても、それは何ら有意義な意味を持たない。
他人を攻撃し追い詰め排除しようという虐めになっていて、何の助けにもならない。
できないなら消えろ、というようなものだ。できるのが当然でそうなってもらわねばならず、他に選択肢は無い。
けれど、実際やっていることは、両腕が無い人に箸の持ち方を両腕を使って教えるようなものである。
教える側は自分が非効率的なことにまるで気付いていないように見える。
両腕が無いことに何時までも気付かないから自分が傍から見れば間抜けな対応をしていることにも気づけない。
それは
両腕が無いくらいは目に見えて分かるが、脳の欠陥なんてものは目に見えないから当然といえば当然である。
目に見えぬ意識の違いについて両腕の欠損と同様に自明なものとして捉えられる程、殆どの人の頭は賢明にできていない。
余談だが…
だから発達障害なんてものは何時まで経ってもなかなか理解されないのだと思う。
当の本人にとってさえどこに障害があるのやら自明ではないのだ。はぁ…それなのに説明ばかり求められる。
素人が道具も使わずに身体の不調だけでガンのステージや余命について他人へ説明を求められているようなものだ。
自分の身体のことなのだからわかるのが当然なはずだ、などという信仰はやめてもらいたい。
発達障害は異文化に例えられるが、例えば全ての日本人が日本の伝統芸能について詳細な説明をできるわけがないのだ。
他人を本当に助ける気のある殊勝な人間は非常に稀である。
助けるには腕を伸ばさないといけないが、そんな労力を割こうという人は今の世の中に珍しい。
きっと、自分の子供でさえ、そういう労力を割けない人は多いだろう。
普通は勝手に育つはずだから、そんな必要は無いと思われているようである。
いじめを放置する教師もだいたいそんな風に考えているんじゃないかと思う。
勝手にどうにかなると、油断し期待し労力を割かないで済むように祈っているうちに分水嶺を越えるのである。
予防医学なんかでもそうだが、病気になってからでは遅いのに、病気になってから対応しようというのが多くの人間の当たり前であるのかもしれない。当たり前とは絶対ではない。
それが結局は、誰かが代わりにやってくれるはずだ、という気持ちだろう。
だから、
他人を本当に助ける気のある殊勝な人間は非常に稀である。
助けるには腕を伸ばさないといけないが、そんな労力を割こうという人は今の世の中に珍しい。
きっと、自分の子供でさえ、そういう労力を割けない人は多いだろう。
無駄な責任も労力も負いたくなければ、何をすれば正解なのかも分からないような自由が氾濫した時代だから。
ことが起こったあとに難癖を付けるのは楽で良いが、問題は事前に対処することである。
私は母性なんて言葉は嫌いで同様に父性なんかもそうである。何でも自然に当然にかくあるに違いないと期待するのは人間に関しては間違うことが多い。母性や父性が社会にとっての当然を教えてくれるわけがない。社会とは人工的なものだからである。
社会の道徳も概ね似たようなもので、モラルはモラルを持とうと思わなければ身につかないのではないか、と最近思う。
そんなものは自然に当たり前に備えているのだから関係ないや、という人はあるべきモラルを失っていくのではないか、と。
あるべき、なんて言葉が既に間違っていて、当然じゃないからである。