LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

底の空いた瓶

発達障害者とパートナーというのは、パートナーの側が発達障害者側に一方的に気を遣って疲れることが多いらしい。

普通、対人関係では互いの感情的なやり取りで互いにエネルギーを満たすもので、それが毎日の活力になるらしい。

私にはエネルギーを注いでも注がれることはないし、お返しも無いから交流の手ごたえが無く疲弊ばかりするらしい。

逆に考えると、私も他人からエネルギーを貰うことはできないから交流する価値を感じない。

他者が私に他人と関われという場合、私に無償奉仕しろと言っているようなもので、

私に対する他者がそうするように、私もまたそうせねばならないということではないだろうか。

他人との付き合いはそこに感情的メリットがあるから継続して行いたいことであって、

そこに感情的なメリットが無く疲労だけであれば行いたいとは思わないだろう。

私は他人にそのようにされる気も無ければ、自分がそうする気も無い。

例えば、他人に感謝して貰えるので仕事に遣り甲斐を感じるという人がいるが、私はそんなものを感じないので遣り甲斐にはならないのに、遣り甲斐になるはずだ、と健常者は信じて私にそうあるべきだ、と押し付けるわけである。そんなものを感じないということが理解できないのだ。

だから毎日人と顔を合わせることも疲労以外の何者でもなく、健常者と比べてそこに負担しかないのに、

人間関係の負担がみんな苦労していると一緒くたにされ同等であるかの如く見なされるのは心外だと思う。

健常者は苦もあり楽もあって多少バランスが取れるだろうが、私には苦しかあり得ないので苦渋をなめ続けることになる。

長く働けば人間関係がよくなることも期待できない。私と付き合うメリットが無いから避けられるようになるだけだ。

避けられるようになること自体が障害の結果なので私には避けようがない。そして、他の人たちが互いに交流が持てるというところを見せつけられることになる。要は集団の中で必ずハブられるように物事が進行するわけである。そして、それは私の性格のせいではなく障害の結果であり生涯改善しようがない。

他者にとって多少の人間関係の充足があるのだろうが、私にそんなものは無く、上述したような結果になるため、集団の中で避けられ孤独に耐え続けるという難儀な目に遭うことになる。信じて貰えないかもしれないが恐らく私の努力が足りなかったせいではないのだと思う。自分も努力で何とかなると信じようとするからそれができなくて自分を責め傷つけ続けるのである。周りは努力しろ、としか言わない。障害の結果、浅い関係しかできないから他人から理解されることも殆どない。付き合っても嬉しいとか楽しいとかいう共感のメリットが無く、あっても上辺の錯覚なら、つまらないのだから私を理解しようなどと思わないだろう。私も他人に共感できないのだから、他人を理解しようなどという動機は感情的に起こらない。

そんなことだから他人が感じる労働の喜びなど私にとっては凡そ存在せず、孤立させられて白眼視される日常が延々続くと思うとやりきれないというわけである。また働く能力が人並みにある人よりも人以下であることが多いので、他人からの不満が自分に向かってくる可能性も高い。知的障害者が虐められているのを見たことが無いだろうか?発達障害者も結果は同様である。知的障害者なら周りもどうしようもないと思ってくれる分マシなこともあるだろうが、それがなければ、今度はまともそうに見えるので自助努力が足りないせいだと責められるという責め方が追加される。「仕方ない」と容赦せず「努力していない」と取られる分、攻撃され易かったりする場合もあるかもしれない。

仕事に打ち込んで能力を活かし認められれば?自分の能力が認められることと人間関係が十全に築けることは別で、能力が認められても満足な人間関係が得られるわけではないことは目に見えている。利益が必要な人間が寄ってきて、必要なものだけとって後は放置というのがオチで、そんな待遇に自分が認められてると思い込むのはアホらしい。

仕事の技術や能力と人間的な信頼関係は別で、前者を頑張っても後者は得られないと思うが、私は後者を望むので前者に興味はない。寧ろ下手に関わって嫌われずとも微妙に避けられ仲間外れにされるのが耐え難い。私がいるから、裏でメールを回して後で私以外で合流して飲み直そうか、みたいな。悪い人じゃないんだけど合わないから…みたいな。

そういう微妙な空気の中で罪悪感を感じながら同居させられるのは厳しいので、なら最初から関わりたくない。自分の障害をまざまざと見せつけられ「お前は一生他の人たちが当たり前にするように他人と友人になることもできないのだ」と示され続けるのはキツイ。

孤独が辛くない訳はない。集団内での孤独は毎日ホームアローン状態みたいなもんである。10人の家族の中で一人だけ毎回忘れられて毎日置いてかれるより、初めから一人暮らしの方がどれだけマシか…。ホームアローンの結末みたいに迎えに来るものもいない。エンドレス放置プレイである。一人暮らしだって寂しいのに、後者がどれだけ精神的なダメージとなるか想像できるだろうか…。学校でクラス全員から無視されて自殺する子も中にはいるわけであろう。無視されることが分かっているのに学校に毎日強制的に通わされるという状況を社会の場でまたやらせるのが発達障害者の自立支援というやつじゃないだろうか…^^;

寄ってくる人間は自分を利用しようとする利己的な人間ばかり。そんな面倒な人は要らないから、人から認められるようなことをわざわざしたくないと思う。この障害があるからまともな人は寄ってこない。日本に住んでいるのにわざわざ言語の通じない人と友達になろうとはしないだろう。私が寄ってくる人間に優しくすると、普通の人は最初のうちは良いがそのうち奇妙な感覚から合わないなと思って関係が切れる。

友達をきちんと選べる人間は私など選ばない。まぁ、だから私は変な人間を選り分けることはできる。私にすり寄ってくる人間を避ければ良いだけだ。私を選ぶ人はどうかしているのだ。それこそ修行で付き合ってると言い出しかねない。そんな人は私を侮辱しているだけなので遠ざける。溜息しかでない。

発達障害者同士お似合いだと思う人は言葉尻だけ見ているのである。女と女が結婚するのが自然と思うかどうか、考えて貰えれば分かるだろうか。同性愛者はオカシイのである。頭が。敢えて言うが。

ホモもレズも頭がオカシイから「私は頭がオカシイ」と言って苦しむのである。まぁ、ある種の障害だと思う。発達障害も頭の中にオカシイ部分があるから「私頭オカシイ」と悩むわけだろう。彼らにだから仲間?と言ったら失礼だと思われるだろうか…。

それをマイノリティという言葉で「おかしくない」というのはおためごかしであると思う。普通は異性愛者として生まれてくるし、右利きだろうし、発達障害など無い。それが少なくとも人間の健康な状態だろう。

そこに「おかしくない」という言葉を使うなら、それは正常だという意味ではなく、彼らを「悪ではない」と言っているだけで、正直、当たるべき部分が、外れていることに変わりはない。まぁ、これだと同性愛同士はくっつけ合えるかもしれないから、例としては微妙だった。

発達障害というのは(専ら)感情の共感が起こらない障害なので、人間関係で充足を得られない。人間関係ができないもの同士をくっつけて、できるようになる、と思うのは、まぁ論理的にありえない。マイナスとマイナスを足したらもっとマイナスになる。そう考えて貰えれば良い。二人とも要介護者の老々介護みたいなもんである。

健常者と発達障害者の関係はプラスとマイナスを足してプラスになったらいいな、というものなので、健常者に負担をかけて付き合う気にもなれなければ、発達障害者同士じゃ互いに疲れるだけでメリットなどないだろう。

それで日々が地獄だなと思って集中が散発し階段を踏み外して落ちたりするのである…。

サヴァンか何かがあるから発達障害が普通の人より役に立つかもと言われる妙なフォローがあるが、役に立たないが仕方ないから人道的理由で生かしてると言われた方が楽である。もう役に立ちそうもないダウン症児や知的障害者をなぜ生かすのか、発達障害者をわざわざ別枠で役に立つことにしなくていい。劣った存在だと言ったら良いと思う。無理なフォローの方が傷つけられる。

この障害は、他人のせいでもなければ自分のせいでもなく、ただ遣り切れない、そういう宿命的加虐だろう。まぁ、明らかに遺伝するが。そういう意味では遺伝された誰かさんのせいだが、正直、責任が取れるものでもない。のび太レベルの科学者なら何十年と研究して再起動させてくれるかもしれないけどさ…。

障害の結果同じようなことを考える人はいるもので、生きてる意味がない、自殺した方がいい、安楽死したい、などと普通に検索すれば幾つかヒットする。個性や文化なんて言われても苦笑いするしかない…;そういう言葉こそ私は真に受けないでほしい。「末期がんにかかって、病気も私の一部ですから」と言ってるような感じだろう。自分への慰めには良いかもしれないが、他人がそう思って良いものではあるまい。無慈悲で酷い残酷だあんまりだと思ってくれた方が良い、と思う。

障害者を障碍者と書くと、害が無いかのように見えてしまい、私は嫌だと思う。何れにせよ忌避されるのである。障害と名が付けられねば今度は狂人扱い。笑いもので。死ねのコール。何れにせよ、普通という見方が難しいなら警戒されるよりは可哀想な人だと思われた方がマシだ。差別しないなんて綺麗ごとは無理で妄信するのは寧ろ悪い。