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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

コミュハラ

コミュニケーション・ハラスメント。要はコミュニケーションの強要で相手に苦痛を与えること。

まぁ、ツイッターで注目を浴びた、とかだったかな…。

私は賛成。というか、そういう苦痛を日夜訴えてる人だからなぁ;

私からすれば、カラオケの強要、飲み会の強要、と同じなんですよね。

私が学生の頃はそういう強要が当たり前で、モラハラ・パワハラなんて言葉も比較的新しいですよね。

『ばらかもん』という漫画・アニメを見ていたんだけど、村社会はコミュハラが基本ですよね。

それに迎合できないと村八分にされるし、それが正しいという空気が作られている。このアニメの主人公は潜在的に他人に構って欲しい人なので、村人は主人公をツンデレということにして上手く回るのだが、コミュニケーションが苦痛になる人にとっては深刻な嫌がらせである。私なら鬱になって死ぬ。

そういう寓話って無かったかな。関わりたいけど宿命的に関われない。本気出しても無駄です。魚が陸に上がろうとするようなものなので。数秒ならイケるのかもしれないが…。癲癇の発作をもった人が色々な社会での機会を奪われて人生を「永遠のお預け」だと表現していたが、私にとって人生は他人に関わることに対して永遠にお預けされているような感じだ。

何も悪いことはしていないのに終身刑みたいな(´・ω・`)

その癖、私の育った当時って、世の中誰でも頑張ればどうにかなるスタートラインはみんな同じ

みたいな風潮だったような気がするんですよね。

まぁ、今でも話し合えば人類は分かり合える、って思ってそうな人がいて、ツッコミ受けてましたけど。

じゃあ、ちょっとシリア行って争い止めて来いよ、っていうね…。その結果、どうなったか実例は色々あると思うけど。

まぁ、例えば「ウィリアムズ症候群」とか人の善性を極端に信じてしまえる障害もあるらしいので、私やその人が笑われるのが間違いな気もします。勉強が足りないのだと単純に馬鹿にできるのかどうか、という。自分と相手が平等に努力の多寡によって差別されるべきか、という。ディクレクシア(学習障害)の存在を考えると、他人を自分と同列に語って上下を付けて見下せると思うのは、それこそ安易な気がする。相手がどんなに愚かでも。

資本主義や能力主義の正当性を頭から信じ込んで疑うことを知らないという意味では、私と彼と彼を笑う人に本質的な差が無いだろう、という意味で、笑ってしまう自分にツッコミを入れてホントはもう一度笑える話だったりするのかもしれず。50歩100歩と言っても、50歩は中々大きいのかもしれないが、井の中の蛙であることは両者とも同じなのかもしれないな、とか。

どんぐりの背比べ、でも良いけど。

まぁね、そういうこと考えるのが既に一般的じゃないみたいなので、愚か者呼ばわりも心外だろう。みんな専門のことで忙しいんだから(´・ω・`)数学について日夜考えている人に歴史についての考えが深まる期待はできないですからね。経済について考えている労働者に老人介護の考えが身に付く期待なんてできないでしょ。もし考え方が備わったならどこかで時間を割いて仕入れたに違いないわけで。

私みたいに問題意識を持ってるのは差別問題の当事者か関係者か暇人だと思うし。というか人と話さないから普通の人がどの程度、自分の考えと差があるのか分からない。私の考えてることは多くの人にとって当たり前の見識なんじゃないか、とか。

一般人(多数派)>>>私≒彼

なのかも(´・ω・`)

大海を知らないのは私だけなのでは…。

所詮、私などネット弁慶の知ったかか( 一一)

私だって社交的であれたらとどんなに願っているか

おかげで世界が狭い。室内飼いの猫のようだ…orz

日本社会の全体主義、というか義務教育の場の空気とかってのは、そんな感じだった気がする。

所謂、クラスのムードメイカーやヒエラルキーのTOPにいる集団が主に作っている空気に合わせられない者が色々な方法で攻撃される。そういう空間で育ってきた人たちは、それを処世術として他者に教え込もうとする。そうやって、その文化が踏襲されていく。

スポーツ界に蔓延する暴力は問題視されてきたが、伝統の名の元に正当化されるから無くならない。

先輩に虐げられてきた後輩は当たり前のように自分が先輩になった際に後輩を虐げてリベンジしようとする。

コミュニケーションの強要も排他されないような気遣いとして為されるが、その実、その行為自体が相手に苦痛を与えていたりする。君のためを思って言っているんだよ、と言って関わり合いや振る舞いを強要する。それがそのコミュニティのルールだからという建前で個人が権力を借りて振りかざす部分がある。

発達障害者の場合、社交によって苦痛を得ることは本人の努力の如何によるものではないので仕方ない、という理解があれば、強要しない方が良いと常識的に思い至ってくれる人が増えるのではないか、と思う。コミュニケーションを取ることが誰にとっても楽しくて正しいことで、当たり前にできることだ、出来るようになることだ、と考える人が少なくない。そういう人がきっと楽しいはずだから、とコミュニケーションを強要してきたりもする。お節介を妙に強硬してくるわけである。世の中にはそれがいけない人、出来ない人もいるのだ、という常識が世の中に広まってくれると、自分の常識を何かと押し付けてくる人に歯止めが効くので私は助かる。

発達障害でなくとも、子供の頃の社交化に問題があったとかでコミュニケーション能力に難がある人はいるようである。そういう人たちが所謂コミュ障なのではないだろうか。そういう場合、MRIなどで分かるようになるかもしれないとか。そういう科学的な根拠があると他人に納得して貰いやすくなるだろうと思う。先天的なものと後天的なものがあり、両者は別の理由からくるコミュ障なのかもしれない。

コミュニケーション能力が無くても人格否定されずに、まともな待遇で働ける場が欲しい。それは我儘だろうか。

まぁ、科学的根拠とかが出てくると自分の努力が足りないせいだと思って検査を恐れたりもするわけだが…。そこから外れてしまったら…という恐怖である。うつ病が血液検査で分かるとなると、うつ病じゃ無かったら(検査から外れたら)甘えだ!と罵倒されるんじゃないか、と恐れて病院を受診できなくなるとか^^;

私はその気持ちが分かるけど、弱者じゃない人の中には理解できない人もいるだろう。

まぁ、例えばの話「アラビアンナイト」でスネ夫が蜃気楼を見て「オアシスだ!」とみんなに言うわけだが、オアシスなんて無かった。自分の頭がおかしかったのだ…と気を落とすシーンがあるけど、そんな感じである。

蜃気楼を見ているのも事実だし、オアシスが無いのも事実なのだ。それで他人は当人を嘘つき呼ばわりする訳だ。当人は「オアシスがある」と言ってるわけだから自分が嘘をついたと思って罪悪感を感じる。認知した意味では嘘じゃ無いのだが。周りがあらぬ期待を持たされたことも事実だろうが、それでスネ夫を責めるのも酷な話だ、ということである。

話を戻すが、コミュハラみたいな概念が少しは広まってくれると、みんな対人関係にもう少し慎重になれるんじゃないか、と思う。人間関係は関係性の濃度を測りあって距離を模索し合うというもので、本来ずかずか踏み込むようなものじゃないのだと思う。また、コミュニケーションを取ることを最終的に他人に要求して良いという考えも改めて欲しい。

例えば、口頭ではなく筆記で、電話ではなくメールで私は言葉を伝えて欲しいと思っている。だが、社会の常識として、私の考えが受け入れられることは少ない。健常者にとって手間だから社会のルールを盾にとって私の要求は退けられる。だから、常識が広がって相手によって方法を選択してくれるようになると私は嬉しい。

コミュニケーションを取りたい人の立場も考えられるべきだ、という人もいるかもしれない。例えば、飲み会がしたい人はどうするのか、と。したい人はしたい人でやれば良いのである。正直、コミュ障が世の中の大半を占めるとは思わないので、飲み会をしたい人もいるだろう。正直、飲み会に出ない人間が異常者であるように見なされる現状がオカシイのである。

コミュ障でないにしても『うさぎドロップ』のように子育てを優先したいから飲み会には行きたくない、という人が断り易くなれば良いと思う。村社会的なコミュニティの息苦しさは減るだろう。現代は正直、そういう変化に対する過渡期のように見える。結局、そういう形で社会は少しずつ生き易くなると思う。社交的で社交がどうしてもしたい人は同じ仲間を探せば良いだけだ。それは皆に強要するものではない。

なぜ強要したがるのか、男性の社交能力が低いからだろう。会社では誰かが構ってくれる、と、そういう話だろうな、と思う。自らそういう機会を作る能力が無いのでコミュニティのルールを利用しているのだろう。プライベートじゃ誰も構ってくれないから寂しいし暇だし会社に行って働きたいのだろう。だから家には居場所が無く、定年後は手持ち無沙汰になる。

まぁ、一部の人の話だろうが。そういう人ばかりじゃ無いので、という話である。昔の先輩後輩関係とか縦割り社会とかいうのは、正直、そういう人にとって都合が良いのだろうと思う。それが現代では切り崩されていってるんじゃないかな、と。逆に言えば、そういう構造が残存してる時代というか…。特に体育会系な会社なんかは多分、そうだろうなぁ、と。

寂しいから他人とコミュニケーションを取りたい人が、コミュニケーションを取りたくない人に、コミュニケーションを取るのが常識で人間として当たり前だと強要するという構図は、あると思います(´・ω・`)

ただね、コミュニケーションってのは言葉や音によるものだけではなく、非言語によっても為されるもので、私が言うように、文字によってもできる。ボディランゲージとか。なぜ言葉をそこまで重視するのか、疑問を覚えて欲しいかな、と思う。

『声の形』という漫画では、聴覚障害者のヒロインは言葉(音)のコミュニケーションに随分苦しめられている。他にも人間は視覚にも頼りまくっているが、それが唯一解である必要はどこにも無い。筆記や手話、ボディランゲージでも良いはずである。それが口頭のコミュニケーションを妙に強いられるということにもっと疑問を感じて欲しい。

それは健常者にとっては楽なのかもしれないが。駅には多国語の表記や点字、障害者用の配慮が至る所にあるが、会社や飲み会の場にそんなものは殆ど無い気がする。身体障害への配慮は結構見られるようになってきたが、精神障害への配慮はまだまだ少ない。彼らがツイッターでネットに画像をバラまかれて名誉を棄損されても誰もそれを問題にしてくれない。声を上げられない人の人権を誰が守るのだろう。

例えば、そこで、

声を上げられないやつは死ね、という人が、老後の心配をしているのは馬鹿なんじゃないかと思う…^^;

まぁ、弱者の首を絞めているのは同じ弱者が多いんだそうですけど。

人間って自分で自分の首を絞めていても、それに気づかない生き物なので…。私も例外じゃ無いですよ。

私は結構、自分が愚かな自信がある…^^;

誰もが掛かる恐れのある認知症なんかを切っ掛けにして精神障害知的障害に対する考えも深まって欲しいなと思う。