LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

社会参加という際の社会という言葉の危うさ

自立支援というとき、社会参加と共に言われるが、この社会とは健常者の社会である。

あるいは会社など。駅の構内を考えると、これは右利きの人のための社会である。

障害者のためのシステムではないから誰かが介助せねばならない。

これはオプションを付けている。特別扱いしている、ということである。

自立支援・社会参加というとき、

このオプションや特別扱いが必要であるということに意識が回っていないように思える。

それらは個人が努力で何とかしないといけないことなのだ。健常者社会に合わせろ、ということである。

それを社会参加と言うとき、その社会はこちらに歩み寄ってはくれない。健常者は何も言わずとも社会の側が適切な形を持っていて、自分のニーズに合わせてくれるだろう。所謂、ユニバーサルデザインは黙っていても提供される。

けれど、健常者で無い人にとっては、体型に合わない机や椅子を常に強いられることになり、

それに自分の身体を無理やり合わせることを社会参加や自立支援と呼ぶので、脱落するものが出るのは当然である。

理屈として考えるに、その社会の不寛容に到底納得はいかないからであろう。

人間としての尊厳を曲げろ、と要求されているわけであるから。

犬に「にゃん」と鳴くことを自立支援・社会参加と呼び全ての障害者支援に強要し、

適応できない人間を適応障害=病気と呼び治療の対象とするのは、

そうした人の尊厳を踏みにじる行為であるので、それなりに自尊心がある人は受け入れられないだろう。

私は自尊心を守る権利は万人にあると思っているのだが、どうなのだろう。

適応できると思える社会が無いとき、社会参加を強要されない権利が我々にはあると思う。

例えば、言葉の話せない移民に言葉の話せない場所での社会参加を強要するのは苦痛を与えることになる。

移民してくる方が悪いのだ、という理屈で彼らの人権に配慮しているつもりだろうか。

参加し続ければ言葉がいつか話せるようになる人というのは一部である。

自立支援を強いて、その中のこれだけが社会復帰できました、と言っても、

それは強制労働を課して、これだけ耐えられました、と言ってるのに過ぎない。

その他は犠牲である。望まれない自立支援など必要ない。

健常者側の一方的な正当性を盾に自立という言葉を社会的排除者に押し付ける暴力であり、ハラスメントである。

多数派が人口の多くのパーセンテージを占めているのだから、マイノリティが少々社会参加できなくても現代社会は回る。

にも拘らず、全員が同じでなければならない、というのは暴論だと思う。その結果のヤクザや暴力団であろう。皆と同じじゃ生きていけないから不法行為に走るしかない。

社会に適応できる程度に恵まれた健常者からすると特別階級でズルイということになるのだろう。

それは私とあなたが同じ条件で生まれたなら、という前提である。平等というのが等分であるという共産主義的幻想に基づく。実際には、足りない人により多くの労力が割かれるものだ。

生まれや運命が不平等だから足りない分だけ補填するのである。その補填の仕方は色々やらねばならない。身体障害・知的障害精神障害発達障害・その他適応障害者それぞれに合わせてやらねばならない。視覚障害者と聴覚障害者に同じ内容の支援で良いとは思うまい。

社会に適応できない場合には、適応できる場を作るか、適応できる教育をするか、適応しないで良いと言うか、という感じだが、子供の頃に適応できる教育が施せなかった場合、教育で改善できる場合が殆ど無いので、適応できる場を作るか、適応しないで良いと言うか、ということになる。

それをしないならそれは満足な人道支援では無い。日本の場合、個人の支援に主眼が置かれるというが、教育は限界があるので、それじゃ捕捉しきれなくなる。社会に場を作るなり、基本的保障をするなりに目を向ける必要がある。

ひきこもり(障害と認められるか分からないが)に対して障害者権利条約のいう合理的配慮を期するなら、例えば在宅の仕事が得られ、最低賃金程度の保証がなされるとか、そういう労働環境が提供されるとある程度、働けて生活の目途が立つ者も多いんじゃないかと思う。

外に出なければならない、ということを条件に持ち出すから労働のハードルが上がるのである。