LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

安楽死の権利について考える

人間的尊厳を守るための安楽死

安楽死を認めることを反対する人が結構いる。発達障害者の中には安楽死を認めて欲しい人が結構いる。

発達障害者は要はいじめられて常に追い込まれている子供と同じ状況(少なくとも心理的に)にいるので、

死なせて欲しいと思う訳である。

死ぬことへの障壁が下がれば、死にたいと言って死ねる人が増えるだろう。死にたいなんて甘えだ、という人は、そういう現実も見た方が良い。正直、甘えで人は死ねるからだ。但し、自殺は恐ろしいもので安楽な手段が奪われている。死ぬ権利が無いとはそういうことである。大抵の死にたいと主張する人は死ぬ気が無いのに甘えから死ねないのではなく、死に至る方法や結果に恐怖するために足が竦んで死ねないのである。

それをもって自殺の権利があるというのは乱暴過ぎる。200社の会社を落とされて社会参加する権利があると言われるくらい、どうかしているし、アフリカの貧困街に生まれてグーグルの社長になる未来だってある、というくらいハードルの高いことを要求している。頭の悪い発言である。

人間はというか生物は思ったように楽に死ねないので、だからこそ、安楽死の権利は必要である。私が健常者で恵まれていた場合もそう思うだろう。

自分が老いて自分で自分の面倒も見られなくなったとき、プライドが耐えられず、死にたいと思ったとき、安楽死の手段があれば良いと思う。そうして死んだ作家がいたが私には理解できた。同情心の無い自己の利益のためだけにやっているような介護者に軽蔑されながらライン作業のように集団介護されて人生の最後を送りたくない人はどのくらいいる?

人は名誉から死ぬものである。だから、他人の名誉を安易に傷つけるべきではないが、弱者は簡単に傷つけられる現実がある。だからと言って、惨めで辛い恐ろしい自殺を選ぶのか、ということである。それこそ今まで生きてきた自分の尊厳を傷つけるとして選べない気がする。そういう選択を強いられる方がどうかしている。

発達障害者はしょっちゅうそういうことを考えているだろう。私は何かの心理診断で惨めな心理状態だかなんだかと書かれていたが、何というかそういう状態にまで追い込まれて生きることを強要されてるのが理不尽なわけである。だからと言って、過去を探しても発達障害者に都合の良い時代は無いので、これから作るしか出来ないのだが。それは戦時に生まれた人が運命を呪うのと似たようなものである。これからが良くなっても、例えばもう自分は養育を受けることができないとか、要するに手遅れなので、幼少期に拾い上げられる発達障害者を祝福したいような何とも言えない気持ちにはなる。それだって、まぁ私から見ると発達障害者を無理やり適応させようとしているように見えるのでそんなことで彼らが幸福になれるとも思えない。観点が足りていないのである。SSTというのは社会的障壁を取り除く方法では無いので、それで社会的排除から逃れられるわけではない。カサンドラ症候群はSSTの問題では無いからである。社会的障壁を取り除く努力がされない時点で発達障害者自身の養育だけでは自ずから限界がある。というか同じでないのに同じにしようという考えが見える部分には障害者差別だろうと思われるものがある。「黒人なら肌を白く塗って来なさい」とか言われるレベルである。

何というか、自分の命より大切なものはあるのだ。苦痛っていうのは死ぬのに十分な理由になる。自殺頭痛とか有名だろう。物理的なものだけでなく精神的にもそうなのだ、と子供のいじめの問題は訴えているはずだが、どうも大人は別にしたいという人たちがいると思う。精神的苦痛をみんなそうなのだ、と言う人は、一度四肢を切断されてくれば良いと思う。そういう人もいるから大丈夫なのだろう?

そして、社会というのは誰か人が実際に死なないと問題にしない側面が強いので、死のハードルを下げた方が良い。ごろごろ人が死ねば生きている人の道徳性を疑う必要が出てくるので、社会システムが見直される契機が増えると予想する。そして、自死する人も精神的・肉体的に長く惨めに苦しむ必要が無くなる。幸せなら生きれば良いし、不幸なら死ねば良いのである。多分、多くの人は少々の不幸では死ねないように出来ていると思う。だから死ぬのはきっと少々の不幸じゃ無かった場合だろう。それを他人が決めることは中々難しいと思う。それで弱者を見殺しにして良いという民主主義なら人間は生まれ持っての畜生なので民度が下がるところまで下がれば良い(苦笑)ただ、そんな世紀末になると国際社会の非難を浴びるから、そうはならないと思う。

ただ人間というのは自分は良い人間だと思いたい生き物なので、死という否定できない不幸の現実を見せつけられれば、それに耐え難さを覚え、何とかせねば、と問題意識を抱くだろう。ある程度。犬や猫でもそうだが他人に対する思いやりくらい普通は持っている。サイコパスとかは持っていないようだが、マジョリティ側は持っているので問題は無い。それは勿論、他人を支えられる能力を持った人たちのリソースが支えられる分までだから、漏れる人は助けられないから死ねとさっさと楽に死なせてやれば支援者が潰れることも無いんじゃないか。というか支援者が潰されるような現実状態では支援者側が耐えきれなくなって対応を見合わせてしまうだろう。そうしたバランスは取られなければならないのだが、支援者が潰れるような状況でも「あらゆる命が大事」と言われると共倒れになる。社会的障壁のせいで適応障害(その人のせいじゃないが)で個人の意思として死ななければならないにせよ、社会的障壁が取り払える状況で無い以上、その時点で対応できないのは止むを得ない。何事も社会の余裕や支援の制度ができるまで待つしかないのである。不治の病を治すには将来に期待するしかない。その場合、自死は次善である。問題は尊厳死安楽死)というその人にとっては止むを得ない次善策すら許されず生き地獄を味合わされるということの方なのだ。

てんかんで死にたいような人は死なせてやれば良いのである。哀れに思い周りの人間が上手く生きられるように世話を焼こうとするだろう。てんかんがあると分かれば絶望して死ぬなら、その前に福祉に結び付けられるようになりやすくなるはずである。何というか、周囲に恵まれない人間はやっぱり死ぬわけだが、それは自死を選ぶという際に可視化され問題視されるだろうし、そういう風に制度を作るべきという話で、不幸や絶望が長く続くよりは死んだ方が良いと判断する境界ってのがあると思う。

人間の尊厳に配慮した自死を認めた方が社会システムが健全に運営されるんじゃないかな。勿論、他人が他人の意思で死に追い込んだらそれは殺人だが。例えば、どんな手段を使っても死にたくないという人はその人が得られる福祉の権利で可能な限りは生かす努力をしてやればいい。けど、そうまでして生きたい人が多数派になるとは思えないから、別にそれで医療コストが尊厳死安楽死を認めない今より増大したりという話にはならないと思う。

それに、社会の側がそうなったら死ねと言うというのは、主権が逆転してる。あくまで個人の意思を尊重するという方向が近代国家として正しい方向性だと思う。

ただ問題は自分の意思を表明できない人たちである。その人たちの話は別になってしまうだろう。大抵は、代理人なり代弁人なりを立てて妥当性を論じるのだろう。植物の弁護をしたりするわけだから。人権ならぬ植物権があるとか言って。

ただ裁判員制度のようにその辺の人が決めるのではなく、専門家が判断した方が良いと思う。裁判員制度とか、その辺の人を捕まえて隣に医師を立てて盲腸の手術をさせるようなものなんじゃないかと思うようになったり…。

自分がそんな羽目になるとは思わないからやってるんだろうな…。

そういうのが非常に多い。

情けは人の為ならず、というのは真理だと思うんだよね。

追記:

ベーシックインカムか、無条件の生活保護、働かない権利等を認め、まず生活不安を無くし、人々が自身の能力的欠失によって自尊心を破壊されないで生きていける社会にしていかなければならない。そうでなければ、社会参加や働くことに向いていない人が自死したがるだろう。私もそうである。そういう生きるための無償の生存権を認めるセーフティネットを引かないで、安楽死を認めると、安楽死がそうした生きるのに向かない人々にとっての自己防衛としてのセーフティネットになり、権利というよりマジョリティの競争社会における弱者の切り捨てになってしまうだろう。