LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

医療モデルと社会モデルの射程

発達障害においては医療モデルで対応できる範囲が限られていると思っている。

子供の頃は適応性があるので療育で教育できる部分はあるが、それでも本質的な問題は解決できない。

能力的凹凸、想像力の障害、コミュニケーションの障害、情緒交換の障害である。

最後が最も重要であるが、一般には主な障害として書かれていない。

情緒交換の障害というのはカサンドラ症候群の原因になっているものだ。

他人とのコミュニケーションに報酬があるので人はコミュニケーションを楽しむのだが、

発達障害者はそこに障害があり、他者が交流によって報酬を得られない。

同時に自分も得られないので交流する意味を感じないのである。

だから、他者は私を避け別の健常者と交流を持つ。

定型発達者、非定型発達者と言う言い方があるが適切じゃないと思う。

明確に本来社会生活に必要なあるべき機能が欠損していること、障害があることを隠すことになる。

集団から距離を置かれ「いないもの」として扱われやすい。

あるいは気を遣わせなければならない。

今後そういう気遣いは合理的配慮として納得されるしか無いかもしれないが、

発達障害者はそのいたわりの空気に耐え続けねばならない。

正直、それだけで安楽死を選ぶ者もいると思う。断言してもいい。

知的障害者の多くが善良であるように、発達障害者も善良なものが多い。

だから戦場で引き金を引けない兵士が多いように、社会参加の場で空気を害し続けねばならないことに耐えられない。

ただ人間にとって自分が他者に気遣わせなければならない存在だというのはそれだけで負担である。

一般の人も老いて自分で身の回りのことが出来なくなれば迷惑を掛けずに死にたいと思うのだろう。

他者に迷惑をかけること自体が良心を傷つけ自尊心を低下させ活力を衰えさせ自信を喪失させる。

それが普通である。だから障害者は他者に負い目を感じ続けねばならないという社会的障壁の耐えざるに耐えて生きている人が多いものと予想する。そのことがあまり一般に理解されていないように思われる。そういうことの周知は障害者の開放に必要だろう。厚かましい人も中にはいるだろうが、殆どは罪悪感で肩身の狭い思いをしているのでは無いか…。

そういう思いをしなければならない環境を社会的障壁と言うのである。例えば、妊婦、小さい子供を抱える母親なんかは想像しやすいかもしれない。そういう女性が周りを気にして身を縮こまらせなくて良いような社会にすることが、社会モデルにおいて、ある社会的障壁を取り除くということだろう。

発達障害者はコミュニケーションの場にいるだけで自動的に空気に迷惑をかけ続けねばならず、これに苦痛を感じる。そして、処方も無い。SSTで健常者のフリをしても無意味である。だからこそ発達障害者当事者の見解では望むような友人もできず結婚もできないという結論になる。障害を分かった結果の当事者たちの結論である。

それは他人に配慮した結果だ。厚かましい発達障害者や迷惑に気づかないレベルなら友人も結婚もできるかもしれない。だが、そのくらいの空気は分かる発達障害者は他人に無理を強いようとはせず社会参加を諦めるわけである。他人を傷つけ自分も傷つけられ続けることに到底耐えられないからである。

「声の形」を読むと聴覚障害者が似たような状況に置かれることが分かる。コミュニケーションの障害というのはもう少し重く受け止められる必要がある。集団から無視されて自殺するというのがあっただろう。障害の結果誰に虐められずともあれと同じになる。視覚障害聴覚障害を同時に患った双子がいたそうだがその場合の困難は想像を絶する。その人たちは安楽死を選んだそうだが…。

とはいえ、その困難が理解できない訳ではない。対人関係から排除される精神的苦痛の濃度をもう少し濃く深く想像すると、見当は付く。まぁ健常者はある日、首から上しか動かなくなったと想像すれば良い。将来に対する展望なんて持てないだろう。永遠に今の孤独と絶望という苦痛な状態が続く訳である。

発達障害者のコミュニケーションの障害からくる心理的な負担も同じようなものだと想像して欲しい。『アウトサイダー』を読めば分かるが、死後の生を生きているように感じる、というのがそれだろう。『地獄』という小説だそうだ。正にこの障害はその名が似つかわしい。

サルトルは『嘔吐』という小説を書いたが、そりゃあ吐きたくもなるだろう^^;サルトルがそうだったかは分からないが、何ともなしに吐き気を催す心情は理解できる。何というか生きることに他人と関わることに希望が持てないと、孤独と絶望で心の栄養が無くなりそんな人生を呪っていずれともなく吐き気が込み上げてきたりする訳である。

コミュニケーションが潤いだとすると、我々には潤いなんて与えられないので、カサッカサである。鳥取砂丘である。うさぎは寂しさで死ぬそうだが、人間も寂しさで死ぬ。発達障害者もそうだが私は知的障害者も寂しさを感じるんじゃ無いかと思う。だから、彼らも声にせずとも苦痛なんじゃないかと思ったりする。寂しさ→孤独→絶望はお決まりのコンボだろう。

そういう発達障害者という人々の置かれるブラックな環境に目を向けて欲しい。誰も悪くないが生まれながらの障害なんてそんなものだ。障害者も働きたい?自立支援?それどころじゃない。人道的な生存権さえあれば働くことなんてのは後回しで良いのだ。それ以前に孤独と絶望に打ちひしがれて死ぬ。動物を飼うときはまず環境を整えるものだが、障害者のまともに生きられる環境をまず整えるのが先である。

合理的配慮を要求したところで、障害が表面的な差を埋めて解決するものでは無い以上、永遠にその辺の根本的な解決にはならない。特別支援クラスのように別クラスを作るしかない。というか働かない権利を貰って誰にも迷惑をかけず引きこもりたいのである。世捨て人になりたいのである。それがこの障害の処方箋だからだ。