LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

アウトサイダー p22

ウェルズは世界に未来が無いと言った。

私は世界とは自分だと思う。

人間は自分の意思で生き方を選べる、と考えた時、

発達障害者の社会的障壁はほぼ全ての外界にあるため、

これを否定せざるを得なくなる。

社会参加と言ったところで、全てが拒否と応じるから、

世界を否定しなければならなくなる。

ケージに入れられた犬、鎖に繋がれた犬のような状態。

散歩にも行かせて貰えない。

万事が万事、そういう状況では世界は間違っていると結論付けざるを得ないのだろう。

自分のような人間が救い出される将来が見えないから。

今の時代なら彼らも少しは希望を持てるのかもしれない。

考え方の幅自体は広がって来ているはずだからである。

政治的に望ましい結果が得られるようになるのかわからない現状だが、

市井では一部に自分と共感する意見が見受けられる。

問題の多くは他に自分と意見を同一とする他者がいないことで、

自分しか真実を知らないのだ、という孤立感からくる絶望だと思う。

自分の話は誰も共感してくれないから、黙るしか無いのである。

そして、自分がおかしい、自分が狂人なのだ、と思い、その心的負荷に耐えられず、心が破綻する。

今日ではネット掲示板などで自分と同じ意見の人間に会うことができるため、

それが実に少数の人たちであっても、自分一人が狂っているわけではないのだ、と考えさせてくれる。

個人の問題というより共通点があってそうなるのだと考えられるなら社会に希望が持てるのである。

アウトサイダー」の主張は、ウェルズの『盲人の国』のなかで主人公が述べる主張と一致する。つまり、「アウトサイダー」とは、事物を見とおすことのできる孤独者なのだ。それは不健全で神経病的な人間にすぎぬとする反対論に対して、ウェルズの主人公は答える──「盲人の国では片眼の人間が王である」。要するに、病におかされていることを自覚しない文明にあって、自分が病人であることを承知しているただ一人の人間が「アウトサイダー」なのだというのが、彼の主張である。本書でのちに問題とする「アウトサイダー」のなかにはこれをさらに推し進めて、病にかかっているのは人間性そのものであり、この不快な事実を正視する人が「アウトサイダー」であるとさえ断言するものがある。

p24『アウトサイダー

うつ病の人なんかはこの辺をよく読んでおくと良い。病の無い社会に暮らしていると信じている健常者にとって、見た目に分からぬ病を負った人というのは預言者カサンドラであり迷信を口にする信用できない輩である。「事物を見とおすことのできる孤独者」というのは病を負った当事者のことである。それ自体は発達障害に限ったことではない。それ以外の多くの病を負った人々が異宗教扱いされ世迷い事扱いされて孤独に置かれるというのが問題である。

これは戦時の民衆も同じだったと考えるべきだろう。人間にとって、当たり前の反応だからである。当たり前で自然で無知な結果だ。飛行機が飛ぶなんてことは信じられないというのが当たり前で自然で無知な人間の当然な反応である。飛行機が飛ぶことが当たり前だと思うのは、科学と論理と学習の結果であり、そういうものだと既に何度も学習して知っているからである。つまり、そのことについて無知で無くなったためだ。人間の多くはその時代に生きていればやはりライト兄弟を嗤うだろう。

健常な人間でも無知であるのは当たり前で初めからある正常な欠陥である。正常だから正義が振りかざせるわけではないのだ。それが無宗教だから、などの形で学習を拒否ることで無知のままでいられる正当性を立てている。宗教への無理解は障害への無理解と同程度に人間の無関心を試す。無関心であれば無知のままであり上手に論理的に差別(区別)することができないのである。

それは恥ずべきことだ。何というかハンストを笑っている同じ人たちが自分たちが笑われるような状態にあるのには気づいていないのであろう。あるいは気づいているが無知である問題は膨大だし何から手を入れていいか分からないし忙しいし克服するための勉強の難易度は高く、要するにどうしようもないから無視して気づかないふりをして、いつの間にか忘れているというのが健常者という人間の大抵の適応行動である。無理からぬことだと理解できるが真実を明かすには程遠くなる性質だ。

50歩100歩であり、どんぐりの背比べである。

無知であることの言い訳は、仕方が無い、というものだが、だからと言って、他人を無神経に侮辱して良い言い訳にはならない。無知であることすらわからないから、そうできてしまうのが多くのまともな健常な、しかしながら知識が無い人間である。勿論、発達障害者も無知ならば例に漏れない。ただ立場の違いから社会適応者に見通せない問題を考えざるを得なくなった結果、見通せるようになるだけだ。健常な人間の方が優秀なのは間違いないが自分が健常になっても無知に起因する欠点は無くなるわけではない。あくまでも障害に起因するものが無くなるだけだ。過度に憧れると理解から遠ざかる。

戦時の人間を自分ならそんなことはしないと思っている人間が多いと思うが、現実には、ちっとも変ってはいない。そんなことをしない、と言いつつ、そんなことを当たり前に今日でもしている現実が見通せる私のような限られたマイノリティたちは、色々あっても平和に気楽に暮らしていけている鈍感な健常者たちの横で、その悪夢のような人間の愚かさに溜息を吐くわけである。健常者がISI○に引いている横で我々はそんな健常者を見て引いているのである。鏡見てこいよ、と。テロリストもマジョリティもやってることの残酷さは恐らく50歩100歩である。

発達障害者は現在進行形で精神的肉体的苦痛を限界まで受けた上に自殺に追い込まれる等、残酷な形で処刑されているわけで^^;発達障害者以外にも例を挙げれば限が無い。そして、だからといって限が無いから良いことにはならない。(´・ω・`)無論、彼らは限を付けようとしてくるわけだが。

テロリストの社会も信じられないことをしているわけだが、自分の社会でも信じられないことをしているということに気づけるようになると良いなと思う。そういう議論自体は探せば出てくるんだけど、探そうと自分が思うところにまで安穏な日常生活を送っていて問題意識を持てるようになる人がまず稀な気がするんですよね。

悪者を袋叩きにしたからと言って、そいつが正義な訳ではない。だが、正義だと思い込む心理が人間にはあるようだ。そこは正されるべきで整理されるべき心理構造だろう。ネット炎上もそうだが批判が、悪を決めつけた私刑(リンチ)にとって代わっていることは少なくない。

多くの人にとっては原発事故もISI○も最早TV画面の向こうのことでしかない。だとしても、全力で関係無いやとスルーしてPS4の電源を入れるのではなく、本の一冊くらいは読んでみようかなくらいの興味・関心を向けてほしいところである。私も他人のことは言えないのだが…(´・ω・`)

精神障害者差別は、精神障害知的障害発達障害・犯罪者に関して、それらが非国民扱いで社会的排除が当然だというマジョリティ側の数の暴力で消し飛ばせば良いものだ、と考えてはいけない。それでは戦時中とやってることが全く変わっていないからだ。

誰かを非国民扱い狂人扱いにして社会的排除を掛けて当然という思想自体が間違いであると啓蒙されなければ、ヒューマニズムなんて実現され得ないし、戦争になるだのと恐れなければならないだろう。

どうすればそうした問題を抱えてしまう人々を社会的排除せずに済むかと懇々と考え尽くし社会の中に定義できて初めて、人類社会が安定し軌道に乗るものと思える。刑務所に入れるにせよ、人道的な扱いはされねばならない。彼らも何をしでかそうが同じ人間だからである。拘置所で熱中症で死者が出ていたが、そうした場所に送られる人々に対する日本人のモラルが「そんなの人間じゃないから私には関係ない」といったレベルで低すぎるのである。低い高いというよりマジョリティの独善的倫理であって的を外している。

非道な手段で殺されようが、大量殺人されようが、意識が無かろうが、相手が同じ人間であり、人間の尊厳があると考えねばならない。でなければ、自分も相手と同じ無知で賢明でない文化的な人間ではない環境に恵まれなかった同情されるべき人間である。『ジョジョの奇妙な物語』の一章のジョージ・ジョースターの父はそういう考えの人だ。どんな悪人にも慈悲の心を忘れない。それは長期的に見ると建設的な思想である。

被害者は感情的に到底許せない話だが、周囲が同調して全員がそこに乗ってしまうと弱者が社会的排除をされて当然という思想になり、彼らを救済しようというシステムが何時までたっても構築されないのである。結果、犯罪も減らないし狂人も減らないし精神障害者差別も無くならないし支援も無い。被害者が溜飲をほんの少し下げる以上のメリットが誰にも無いのである。

例えば貧困を救おうという国際社会の思想も生まれてこないことになる。貧困は彼らの自業自得であり運が悪い負け犬で「我々に迷惑を掛けるなら死ね」というモラルに甘んじるだろう。歴史は停滞する。だから賢明な被害者は「罪を憎んで人を憎まず」と言うのだが賢明な人はそうそういないようだ。

そうした長期的で建設的だと思われる論理に基づく価値観ではなく、弱者は可哀想という同情心だけに基づく価値観で相手に寄り添っているだけでは、自分が被害者になった場合に耐えられず宗旨替えして弱者は死ねとなってしまうようだ。

マジョリティ=人間ではなく、全ての人間=人間という枠組みに入れて人権や人道、尊厳を考える方向にマジョリティ側の常識を教育していかなければ何時まで経っても犯罪者や狂人に対する研究は進まず、全体主義の弊害が出て個人が抑圧され、偏見に怯え続けねばなるまい。それはそこだけ時計を止めてるようなもので社会が何時まで経っても発展しないのである。

そういう意識は健常者側の競争社会におけるセーフティネットの前提にもなるはずなのに、当人たちは負け犬は死ねという感じで気づかない。

人類全体のことを考えるヒューマニズムは何もやさしさと同情心からやってるわけではなく、長期的に見ると、それが合理的で生産的でもあるという話である。