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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

資本主義も共産主義も同じである

要は、資本主義=能力主義=人のスタートラインは同じで努力で結果が異なる。

共産主義=人の価値は対等

何れにせよ、知的障害から普通、天才まで、身体的に能力的不均衡があることを否定した前提に立つのだとすれば、

資本主義も共産主義も同じく障害者を人間から排他する考えになってしまうだろう。

福祉国家というのは、社会保障によって人々を秩序の内側に篭絡する原理のことで、牙を抜くという意味での暴力装置だそうだ。そこからISのような既存秩序の敵が現われるのは、福祉国家の空白から漏れる人たちがいるための当然であると見做される。これは資本主義や能力主義の射程の問題だろう。能力が無いものは社会的排除を受け劣位を強いられそれを当然とされる。富の再分配からあぶれ生活保障の無い人間は市場から排他され他人から奪うしかなくなる。それは強者の原理であり、弱者を人権の範疇から排除する。

そういう意味で福祉国家があらゆる弱者を含めて全人的(あらゆる人間)に人間を包囲する観念で無ければ、宿命的に欠陥状態を続けるだろう。闘争も犯罪も無くならない。それは人間に悪者がいるからではなく、その社会が人にとって平等ではないからである。人間をカテゴリーに分け、その社会的排除を当然とした考えを続けていては完全な秩序を諦めるのと同じである。法や人権思想的には既にあらゆる人間に生存権が認められるはずだが、実際のリアルな社会では常識としても受け入れられる状態に無いのが現実なのだろう。

私はけれど、そこが人類が平和を築けるか否かの分水嶺だと思う。絶対悪を作り出した時点で、優性論的な排他主義となり、ナチス・ドイツと変わらない道を歩むだろう。それが精神障害知的障害発達障害者…他の病気や身体障害…犯罪者に対してであっても、結局は同じことである。どんな現実的差異や欠点があっても生きている人の人権の上で序列を作りだしてはいけない。一度作り出すとそうした人々を遺伝的に根絶足らしめるまで徹底的に排除し殺し続け、次のターゲットも指名されるだろう。

そういう根拠のある優生学思想が現代には蔓延っていると思う。実際には、どんな根拠があっても他人の人権を奪っては元の木阿弥である。

いじめられる側に原因があっても、いじめという手段を以て排除することが正当化されてはいけないのである。その原因は社会的障壁というべきである。いじめられる側に原因がある場合、その場から引き離し、原因を考察し、社会側で何らかの福祉に繋げる必要がある。

そういう常識を作り上げないと、多分、安心して暮らしていけない。