LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

無理心中に見る軽視

親が発達障害児を巻き込んで無理心中した場合に、親への同情だけ集まる。

本当は子供への同情も集まらないといけない。被害者は子供である。親は加害者だ。

人格や個性があるのに、そんなものは無いかのような親の付随物のように扱われている気がした。

親が社会の福祉の無さと無理解の理不尽の間に強く苦しむことは分かる。同情もできる。

それは良い。けれど、それで障害児が親以上に苦しんでいないと思うのは間違いである。

私には比べられないが。

しかし「苦しみは本人にしかわからない」という言葉が障害者を抱えた親だけに向けられ、

発達障害児自身の心情には端から同情すらできないというようにスルーするのでは、

発達障害児「本人」といった言葉が使われないのが私としては「なるほど~」と思う。

本人不在である。いるのになぁ。…鯨とかイルカレベルだよね。思うに。

犬猫扱いというか^^;飼いきれなくなったんだよね、みたいな。

能力が無ければ人権も無いんですよね。この世の中。

例えば、女性差別の作られてきた歴史も同じであるようだ。力こそ正義というか^^;

勿論、貧しい社会において、そうなる自然の理屈は分かる。日本の歴史も。

けど、未来永劫そうするつもりかな。環境は整えざるを得なくなる、と見る。

介護疲れによる殺人もやはりこうした同情が向けられる。

被害者の自立能力が無いことで、加害者側に頼らざるを得なかったという状況によって、

人権自体もう無いように扱われがちな気がする。

けれど健常者には「仕方ないから」という理由で実際には存在するもの(=人権)を無いことにしないで欲しい。

現実に福祉の手が届かないのだから、そこに同情の余地を認めて刑を軽くするのは良いだろう。

しかし、それで福祉の拡張が急務だという意識が失われるのなら、私は減刑などしない方が他の発達障害者のためだと思う。

それで障害児は殺した方が早いという意識が保護者たる親に罷り通るようでは障害児が取り巻かれる状況が良くならないからだ。

累犯障害者』という本があるそうだが、社会に福祉と受け皿が無いために罪を犯さざるを得ず、

刑務所に閉じ込められなければならない弱者が沢山いる。

そうした現実を見えないように隠ぺいしてしまえるシステムがあるとしたら、

そんなものは当事者にとっては取り除けられた方が良い。見えてた方がマシだからだ。

難民問題を国際社会が人道上、無視できないように、何れこうした問題も人類社会は無視できなくなる。

理性ある心ある人間だというプライドがあるからである。理念を折るわけにはいかない。

多分、そこまでやらねばならないのはキリスト教圏であることも関わるのだろう。

それで難民に潰されそうになっているのを見ると、日本の慎重さを簡単に非難する気にはなれない。

ただ日本でまだ出来ずとも欧米の国際社会に追随する以上、そういうのは遅いか早いかの違いではある。

難民問題がどうなるかによって、他のマイノリティにも影響がある気がするので負けないで欲しい。