LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

難民・能力主義・平等思想・差別・リアリティ・優性思想

人間は偏差である。100人いれば、2人は知的障害で2人は天才だろう。生まれながらの知能にも偏差がある。

その格差は努力で埋められはしない。

だから、努力すれば等しく評価されるとするような能力主義は正しくない。

能力のある人間を能力の無い人間より評価することは正しい。

しかし、能力の無い人間の人権を奪い見下すことは正しくない。

能力主義の思想は人権と生存権が現実的には無償で認められないため後者の念を含みやすいのだと思う。

その対極としての共産主義思想も正しくない。能力の低い人間は能力の高い人間に支えられざるを得ないからである。

その負担を負わせられる高度な能力を有する人間を評価しないシステムもやはり公正とは言えない。

問題はそれらの高度な人間も又、能力のない人間を見下し奴隷のように見つめるようになりがちな、

歪んだ能力主義イデオロギーが広まりがちであることにある。

富の限界から優先順位を付ければ、現代のように難民保護に上限を付けねばならない。

でなければ、若者が老人を支え切れないように、能力の高い人間が低い人間を支えきれない。

それは物理的な問題である。ただ物理的な問題があるからと言って、将来的にかくあるべしという理想からも目を反らすと、運が悪かったことも含め奴隷や虫けらのように扱われ死ぬことがそれらの人々の自業自得だとする誤った能力主義に堕ちやすい。

その誤った能力主義の結果、長く続く戦争で男性が(現実的に)重用されたため、女性が男性より劣ったものだという社会通念が形成され罷り通ってきたようだ。手の施しようが無い問題だからと言って、思想まで捻じ曲げてしまうのは、健常者の悪い癖だ。そうでなければ被害者意識や精神的ストレスを緩和できなかったのかもしれない。

難民の問題に関して言えば、マイノリティの場というのは、マジョリティの社会にスペースを空けて貰う了解を得た上で徐々に広げていかないと文化的摩擦を起こす。だから個人が権利だけを盾にして特攻したところで抵抗されて弾圧されるのがオチだと思う。逆にマジョリティ側への理解が無くなりがちで、マジョリティ側も受け入れの体制が整わないのだから、当然、島宇宙化するしかない。言葉の壁があるような人々は当然そうなりがちだろう。

その結果、本質的には社会的排除を受けているようなものなので生活保護に甘んじて宙に浮いてくらさねばならないようなことになる。心理的にも窮屈であるし厳しいものがある、しかも恐らく奴隷のような低賃金の労働に従事せざるを得ない。その結果、どうなるかと言えば、社会に対して反感を抱く者もいるだろう。また、それを不満があるなら出ていけ、ということのどのあたりが社会で受け入れる気があるのか、疑問である。窓際族というか明らかに辞表を出して会社から出て行って貰おうとしている訳で。それがハラスメントでなくて何なのか、という話である。

それなりの年齢の者に日本語を今から覚えろなどと言うのは難しいだろう。知能の偏差の問題もある。そうした能力的障壁で事実上対等な社会参加なんてできなくなる。しかし、能力主義で正当化されがちだ。努力が足りないせいだ、と。しかし、現実に受け入れ体制を整えられなければ当然の帰結である。社会問題は社会モデルの問題であって、医療モデルで解決できるものという見方を通念にすべきではないと考える。それは日本の社会性=全体主義を押し通すための方便だということを弁えるべきだろう。嘘の真理を信じることは愚かだと他国の政策を見て常々思うはずだ。

例えば、言語的な障壁は翻訳コンニャクでもあれば良いのだが、実際には無理だろう。せいぜいバウリンガルみたいな翻訳装置を作れば良いのだが、それを使うより雇用側は流暢なネイティブを選ぶだろう。その場合もやはり翻訳装置を使うこと自体が福祉的というか社会的施策で受け入れられないとならない。

そういう受け入れの仕方を模索しないこと自体が、実はマイノリティを受け入れる気が無いというポーズになる(ニグレクト=放置みたいなもんである)ので、難民受け入れと言っても、結局する気があるのは仮設住宅を提供するくらいのことでしかない。

さて、個人的に重要なのは、こういう状況に個人が置かれていて、身近な他者が私にどうアドバイスを送るかという話である。身近な他者、健常者は処世術の話をすることが多い。すなわち、周りに合わせろ、であり、努力しろ、である。社会的障壁がどうのという話は彼らにとって目には入っていない。どうしようもないことに対する関心が無いのである。

発達障害者は逆に、どうしようもないことに問題があることを見抜き(スルーできず)、本人の努力の問題では無いことを主張する。努力によって乗り越えられるのだとしても、その努力自体が現実的ではなければ、社会の方を変えるべきだと見做し主張する傾向がある。すなわち、努力して良い大学に入り…的な論を言われれば、最底辺の高校から自宅学習でどうして東大に行けるのか、という。確率的にとても低いだろう、と判断するわけである。

まぁ、ここで私が言いたいのは、私=発達障害者と、周囲=健常者の思考と視野の違いである。周囲はどうにもできないことを元から無いものと見做して無視したがり、個人の努力で何とかしろ、と押し付けたがる人間が多いと感じる。しかし、それは初めに書いた誤った能力主義を信じている主張である。私には乗り越えられない問題なのでそのアドバイスは真に受けない方が良い。真に受けて地獄行脚をしている障害者をよく見るがとても惨めである。能力的な偏差があるという意識はまだ一般的では無いのでは無いだろうか。

努力という場合、自分の資質を考える必要がどうしてもあると私には思える。向いていないことを努力しても仕方が無いのである。腕が無いのに感覚があるからと言って腕を動かす練習をしても意味が無い。発達障害者にとってのコミュニケーションに対する願望は深いが、他人と親しくする練習をしたところで相手が自分に寄り添う努力をしてくれなければ無理である。これは自分の努力ではどうにもならない問題だ。

そのように何が得意なのか、何が自分には向かず、できないのか、よく見極めた結果、進む方向性を決めた方が良い。健常者は能力の凹凸が少ないそうなので割と何でも努力でこなせるようになるのかもしれないのだが…。私は正直、健常者でないので、その辺りの感覚は分からない。

どうしてもマジョリティの社会でマジョリティの常識が当たり前の感覚として流通しているので、マイノリティとしては慎重に価値観の違いを分別するようにしなければ、身に合わない服を着て身体を壊すことになりかねない。それはアレルギー物質を食事から取り除くようにしなければダメなのだと思う。

残念ながら、そういう人間に対する理解があまり及ばない社会に殆どの発達障害者が生きている。そのことを自覚しないと最悪訳の分からない苦悩に耐えきれずに死んでしまうだろう。

我々は特に努力は必ず報われると信じるべきではない。人事を尽くして天命を待つ、くらいの気持ちで努力しか結局できないと思う。ある種の困難の克服を祈念する発達障害者は、私から見ると戦争に駆り出されて頑張れば死なないはずだと期待しているように見える。

発達障害においては猪突猛進というほど愚かな考えは無い。無鉄砲にやって当たるほど我々には万能性が無いのである。失敗体験を繰り返して自尊心を破壊する可能性を考慮すべきだ。自身の障害を理解するために本でも読む時間に充てた方がマシな無駄な努力もあるだろう。

努力は神に祈りながらすると良い。