読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

条件さえあれば幸せに生きるのは簡単だが

思想

動物福祉という考えがある。アニマルライツとか、そういうやつで。

ヘミングウェイは「多くの人間は動物のように死ぬ」と書いているそうだ(『アウトサイダー』)。

では愛玩動物はどうか、というと動物の権利の考えから安楽死の選択がなされる。

彼らは「動物のようには死なない」で済むこともある。

アニマルライツという考え方の中では、動物はその習性を十分発揮できる環境で生きられる権利がある。

ストレスや苦痛は極力減らさねばならず配慮されるべきだ。

そういう意味で、彼らは人間よりも幸福に生きて死ねる場合も多いと思う。

結局のところ、人間の幸福もその程度の考えがあれば大体叶えられると思う。

じゃあ、なぜ幸福になれないのか、と言えば、人間社会が人工的な環境で出来損ないの動物園のような管理空間だからだ。人間が人間という動物を飼っていると思えば良い。

ここに住む人間の人権は保障されているとは言い難いし、お金が十分に無ければ自分の生活環境を満足に整えられない。犬もそうだが人類社会から離れて生きるのも地獄である。そして、労働者は奴隷のように規則的に長時間拘束され働かされなければならないし、そうしなければ大半が自分の生活を維持できない。

統計的にもそのくらいの富を握っている人間は極一部である。社会システム的に人間の大部分は満足な幸福を得ることは大分難しいと思う。だから例えば日本では老後の隠居生活みたいな理想が描かれてきたように思えるが…。

ヘミングウェイの言うように動物的に死ぬのは大体安楽死が認められないせいでもあると思う。

そりゃあ人工死を選択できなければ、自然死しかあるまい。老衰なんて待ってたら餓死するだろう^^;

資本主義社会が幸福の条件はほぼ封殺しているので、人間は大凡望んだ幸福が得にくい。現実的にはかなり条件が限定されるものの、論理的には人間を幸福に生きさせることはとても簡単だと思う。飼養環境を整え、それなりの自由を保障し、苦痛なく死なせれば良い。

単に人間社会というものが出来損ないの動物園で全員がそこで生きざるを得ない仕様なので、最低限の動物の権利すら与えることが可能でない場合が多いだけだ。まぁ、愛玩動物を養うのと人間を養うのとではコストが違い過ぎるが。最後まで飼うのも責任が取れなさそうである。

さて、発達障害者においては難易度が随分あがる。意地悪な作者が作ったハードなゲームをするかのようである。それというのも、対人関係から得られる幸福感が大体阻害されていることに起因する。能力的な凹凸なんてのは正直引きこもっていれば問題にはならない。簡単に言うと生まれが金持ちなら良いのである。それで幸福になれず苦しんでいるのは他人との間に愛情が育めないからである。人間的な交流が持てないので苦悩し孤立し絶望しなければならない。

自己満足の世界で人間は幸福にはなれない。他人の存在が不可欠である。ある記事には発達障害者が孤独に耐えられる人間だと書かれていたが、それは間違いである。対人関係に苦痛を感じるが、孤独にも苦痛を感じる。何れにも耐え難さを覚える。正直、何人もそれで死んでいるようだから、耐えられる訳ではない。単にその矛盾した状態に打ちひしがれて生き喘いでいるに過ぎない。解決の見込みもない。その板挟みによる状況を孤独でも耐えられるとは言わない。禅問答に悟りを開きたくなる程度には孤独を苦痛に感じ、二次障害に陥り、あるいは自死する者もいる。

そういう何れにも居られない面倒な内面を先天的に抱えざるを得ない宿命を持った人間が一部に居るのだと解せば良い。視覚も聴覚も同時に奪われて生まれてくる人間がいるのだから、そんな理不尽が起こっても不思議では無い。ただ健常者の多くはその生まれながらに努力でどうにもならないという理不尽な状況が身近にあるということが信仰上、信じられないだけだ。

人間は自己満足だけでは生きられない。他人と情緒的な交流を無くしては、恐らく本当に幸福には生きられないのである。社会的動物だからだ。犬が人間がいなければ満足に生きられないというのと同じである。自己実現は幸福の高い段階の問題で、低次元の問題を飛ばして幸福を得られるようには出来ていない。

だから発達障害者は不可能だからと言って人間関係を捨て自己満足だけで生きられるはずだと自己の道へ邁進し、これを信じてみても最後には孤独に苛まれるだろう。まぁペットでも飼えば良いような気もするが。多少、孤独の癒しになるかもしれない。ただ私としては飼いきれる気がしないから無理な気がする^^;

要は、よくある「人間関係か仕事か」みたいな二者択一で幸せを得たいと思っているのなら、恐らく不可能だと思われる。そんな当たり前の幸せは手に入れることはできない。本当の友人も恋人も伴侶も得たいものは手に入れられない。たとえ相手がそう思ってくれていたとしても、私の認知の様式がそのように確信を持たせてはくれないだろう。先天的な障害の障壁によって、それらの幸福は得難く人間的なものの入手は果てしなく遠く困難である。関係性は人間の主観が決める以上、主観が害されているのでどうにもなるまい。とりあえず語弊はあるが頭がおかしいことを理解した方が良い。

認知症とか、アルツハイマーとか、そういうのを認めるのと同じである。その症状を抱えて如何に生きれば良いのか要は考えねばならないわけである。当事者としては割と無理ゲーを強いられていると思う。ただ無理なんじゃね?と素直に述べた方がいいんじゃないか、と。

私はそう認めた方が苦しまずに済むと思う。

要はガンの宣告における受容のプロセスを辿らねばならない。最終的には諦めることで余計な苦悩から解放される。それで本質的な苦しみが無くなる訳ではないのだが、もがき苦しんで自分の首をきつく絞めるような苦しみは減らせるだろう。

私には、幸せを望むほど不幸になる、という場合があるように思える。幸せなんてものが端から得難いものであっても、だからと言って不幸に不幸を重ねて更なる不幸の底に落ちようと試みるのは更に愚かである。そういうのを悪循環という。

発達障害者は思い込みが激しい場合が多いから、人並みの幸福とか、幸せになれる道があるはず、とか誰しも幸せになれなければおかしい、とか思いがちである。けれど、既に人並みでは無い訳だし、幸せになれる条件も満たせていないし、誰しもというのは論理的に設定がおかしい。冷静に考えてあり得ない命題だ。

それでは私に普通であってくれればいい人並みでいい、と言った親と同じである。正しい現実認識が出来なければ、正しい行動を導くことはできない。永遠に選択を間違い続けるだけだ。他人を傷つけるには馬鹿なだけで十分だ。

例えば、親が本当にそう思っていて、目的を果たしたいなら、私に人並みを求めるより人並みの養子をどこからか貰ってきた方が確実に目的は遂行できる。私は人並みには逆立ちしてもなれない自信がある。それが当時分かっていたとして、親はそれでも人並みを私に求めようとするだろうか。

臨床家の話では、発達障害者当人と親の行き違いは専門家が間に立って説明を尽くせば正せる場合もあるそうだ。重要なのは論理的説明で互いの誤解を正すことである。まぁ、残念ながら耳を塞いでしまい修復不可能なケースも多いと書かれていたが。

幸せになれる方法が無いとして、じゃあどうするか、というわけである。私としては生きることが今以上に辛く苦しく無ければ何とか生きてけるかなーという感じである。無理解な人と会うのは辛い。誤解を解ける気もしない。解く気も無いのである(ぁ

布教用の専門書を一冊渡すくらいの雑な対応をし兼ねないのが私という人間だから(´・ω・`)

あと話しかけて来たら「壁にでも話してろ」と勧めたい。