LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

僕だけがいない街 感想

最初、主人公が好きになれない気がするなーと思っていたんだけど、話の筋が面白い。

ループもの自体が結構好きなんですよね。きっと。

ただ冷静に突っ込みを入れるとして、あの母子だと共依存関係になりそうで怖いな(苦笑)

絶対、息子はマザコンになるだろう。母親は子離れできるのだろうか^^;

母親の愛は素晴らしいんだけど、生きてる意味自体を掛けられるのは重い。

彼女できたからそんじゃ、と子離れしようとしたら、私の十数年間は…とか言い出しそう、というか(´・ω・`)

やっぱり、その辺のシーンは感動というより重いな…(´・ω・`;)

個人としては他人の期待や願望まで背負いたく無いんですよね。

だから背負わせようとするのも相手の気持ち考えなきゃいけないと思う。

この母親は口にはしてないから関係ないけどね。恩を着せようとする人もいるんで。

昔は親に感謝しろと何度も言われたもんですが^^;そのたびに感謝する気は失せていくんですよね。

黙って夜なべして手袋編んでくれた方が最終的に伝わるんじゃないかな、と思うんですね。

気づかなきゃ気づかないで良いし。

気づいて欲しいですか?感謝されたいですか?苦労に報いて欲しいんですか?

私は献身ってそういうものでは無いと思う。自分にとっても言えと言って言わせたのでは価値が減りませんか。

期待せずにやってて、相手がなぜか自分の献身に痛く感謝してた、

ってのが何か自分はちゃんとした対応ができたもんだなと思い嬉しいもんだと思うんだけども。

だから、私は親切は感謝なんて求めずにやるのが良いと思う。打算でやるもんではないですね…。

子育てもきっとそういうもんだと思うんだけどね。報酬求めてる親が実際は割といるもんですよね。

私みたいに障害を負ってると特になんで私がこんな目に合わないといけないんだ、

みたいな感じになるわけですよ…親がね(´・ω・`)

一瞬の親切なら良いけど長く続けるのは負担感が強くなるからなぁ。自己犠牲感とか。

でもまぁ子育てくらいは最初から献身だと思ってするものだと思うんですけどね。

障害児の親を見てると、虐待する人もいるけど、献身しようっていう親もいるわけですよ。

で献身が自己犠牲かというと私は(必ずしも)そうじゃないと思う。

誰かに尽くす(してあげる)って行為自体が人間にとって自分の価値を感じる行為で、

自己肯定感に繋がり、幸せだったりするので。

だからって自己犠牲で献身的に生きろとは言わないけどね。スムーズにいかないと、荒れるので…。

それで個人を潰すこともありますからね…(´・ω・`)難民なんて国も潰しそうですが…。

何というか、献身するのは良いけど共倒れになっては意味無いんで。お涙頂戴の美談にはなるだろうけど…。

問題解決できないと関わった人間みんな苦しむだけって気がする…。

献身するにしても問題解決のために実践的なアプローチをとれないと、

問題に押しつぶされる人間が闇雲に増えるだけ、というか…。

介護の暴力の問題みたいに、お前が癌細胞だから死ね、って攻撃される話になるわけですね…。

そうすれば私は苦しみから解放されるじゃないか、と。足を引っ張ってるやつを排除するべきですよね!

って思考になるんだろうなぁ。

学校でいじめが出たり体育会系で特に、ってのも分かる話で、競技系の部活だと能力で成績が決まるわけじゃないですか。学校もクラス対抗なんとか、とか団体競技やりたがりますし。要はそういうので他所と競ってる時に明らかに足を引っ張られると自分(たち)の努力が報われない、ということで、足を引っ張る人間をどうにかしようという考えが働くだろう、と。そして何か強要しても努力してできる人ばかりではないから「どうしてできないんだ!」と能力の低い人を追い詰める結果になったり。

義務教育は逃げられない構造だったりするしね。

自然な発想だから、コミュニティの構造を変えないと防げないし、いじめは駄目と言われても自分が被害者になるジレンマでストレスを溜めることになるかな、と。それを耐えろというのも無理がある。それだと、やはりやっぱ何かしらの行動で攻撃されたり排撃されるんじゃないかと思う。陰口叩かれたり無視されたり辞職を促されたり…(´・ω・`)

医療モデルで解決しようとしても、それは無理で、社会モデルで解決せざるを得ない。介護者に精神安定剤を飲ませるか、という話。発達障害者は抗うつ薬を飲まされ睡眠導入剤を飲まされ安定剤を飲まされて「はい適応しろ」と言われるのが現状。社会システムを変えることには抵抗が強い。

個人が変われという話になる。支援者も社会システムを変えられないから、医学モデルでどうにかしようとする人が多い。精神科医も治療という視点で患者を診ることが多いので、社会構造がどうのという視点を持たない場合もある。治療に偏ったバイアスを持ってる。けど医療モデルによる解決は限界があるので個人としては自分を変えられず問題解決の方法が社会に存在しないことでジレンマに陥る。社会は君が変わらない限り駄目だ、と言い、変わらなくていいと言って肯定してくれるものが無い可能性が高い。その結果、変われない自分の自己否定という形で精神的自殺を図る。二次障害に至る。実際に死ぬかもしれないが。

個人の努力の問題というのは曖昧で、だからこそ、否定しきれない辛さがある。努力すればできるかもしれないし、無理かもしれない。統計的には大人の発達障害者がトレーニングを行っても適応性は明らかに悪いと思う。それは殆ど努力による余地が無いということだろう。社会は20%ほど余地があるのだから頑張れという訳だが、可能性を見出して頑張ろうという気にはならず諦める方が合理的だろう。要は痛みに過敏になって、失敗経験をあと100も200も積み重ねて傷つく気になれないのである。

村上春樹がいつか言ってたように、社会構造は壁で個人は卵だと思う。

言ってもせん無きことなのだが言うべきだと思う。逃げ道(?)が封鎖されていても、封鎖されていることには気づいた方が良い^^;自分の力でこじ開けられるものでも無さそうだが。自分の努力の責任にし続けても、最終的に気持ちが折れる。最終的に楽観主義的な生き方が望ましいと思うが、どのようにその境地に至れるのかが分からない。

発達障害者的は視野の狭さ、想像力の欠如、自己同一性の曖昧さ、などの自身の障害(性質)が思考や感情の安定を妨げていると思う。どんなに学習をしたところで健全な人間の健常な賢明さや精神の成熟には自分が至らないだろうという確信がある。自分がどう足掻いても人間的に幼稚で居ざるを得ないだろう、という確信があり、かなり自分の運命に幻滅する。

知的障害があると精神年齢も下がってしまうようだが、社会性の障害、コミュニケーションの障害も同様に精神年齢の成熟を妨げると思える。他者を論理的に分析し洞察できたところで、感情的な納得はできないので客観的データが増えていくに過ぎない。普通、納得が増えていくことが情緒の成熟に重要だと思えるのだが…。多分、共感能力の欠如が現実感の形成にとって非常に大きい喪失なのだと思う。非現実感、自分がその場から浮いた感覚…そうしたものが自己をコミュニティの一員として成熟させてくれない要因、というべきか…。関係性の中で自分が肯定され居場所としてそこを認識した上で自己の役割を確信する。そういうプロセスが多分自分を成熟させてくれるので、肯定されず居場所が無く拒絶されている人間はコミュニティに対する自己の役割を見出せず成熟する機会を持てないのではないか。貢献しよう献身しようという自分の中から出る感情が重要で自助努力に繋がる。けれど、私にはそういうものはない。孤独で切り離されていると、そうした感情が薄くなってしまうようだ。それは実に遣り甲斐が無い人生だと思える。人間の幸福には動機(モチベーション)が必要である。

対人関係においては客観的な他者への醒めた理解がすすむだけで、その相手への愛想ばかり上手くできるようになっても親密にはならない。気を使って相手が気をよくすれば私はただ気持ち悪いなぁと感じる。そうして親密さを偽装することはできるだろうが私と親密になれたとか自分が理解して貰えたと喜ぶ相手を見て欺瞞の気持ちが強くなり精神的に苦しみ耐えられず関係を切ってしまうのだから、相手と親しくなろうとするのは私にとって茨の道で実ることも無いのだから虚しい努力だと思う。そんな自分自身に失望し運命に対する絶望が増える。最終的には私に歩み寄ろうとしてくれた相手の努力を無に帰すことで相手を傷つけることになる。あるいは私が永遠に気を揉んで苦しむか。虚構の関係がいつ暴かれるかぞっとするし継続もまた苦しい。だから私は彼が自分以外と親しくするべきだと思う。

人間関係の構築はそのようにかなり難しいと思われるが、だからといって、孤独もまた自分を蝕む。なら取るべき立ち位置が分からないというのが正直なところである。詰まるところ、この障害が生きること自体を否定し害していてそれ故に生きるのに向いていないと考えられる。

経験をいくら積んだところで精神的に成熟するわけもない。少し人間に関する知識が増えるだけだ。上手く物事を傍観できるようになるだけ。本当に欲しいものは永遠に手が届かない。自分の中に外界への理解を妨げるバベルの塔が建っているのだと思えば良い。脳に問題を抱えるというのは、そういうイメージだと思う。

年老いても子供みたいだ、というより、子供のまま成長できず宙吊りにされてしまうのだと思う。それも含めた発達の障害というべきか。その深刻さは個人的な問題と考えられて伝わり難い。

中国で毒ガスに無暗に突っ込んで死んだり、日本で電気の流れる川に無暗に突っ込んで死んだりするじゃないですか。問題を解決する、のが介助の主目的なのでざっくり言うと問題解決の手段を持たない人が献身しようとしても役に立たず右往左往するだけなので寧ろ邪魔というか…。対応できる人間が必要なので…。

東北大地震の時も似たようなこと言われてましたよね(´・ω・`)統制とれないから部外者は寧ろ邪魔だ、と。