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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

双子と発達障害とアイデンティティ

発達障害者は個性だと思っていたことの殆どが障害の結果であったことを知る。

双子(一卵性)は互いに思っていることが同じで隠しごとができない、という。

人間の思考形式を形成するのは、遺伝6割、経験4割と仮定したい。

このうち遺伝というのは、発達障害者にとっての遺伝疾患であり、双子にとっての等しい素脳(遺伝子に編まれた生まれながらの脳)である。素脳というのは勝手な造語だが、学習していない素の脳というものを仮定した時、それは遺伝的に多様だろう。犬の気質・性格の違いのように、家系を経て混交し作られてきた癖があると思える。

敢えてこう言うのは、資本主義や能力主義が生まれながらに人は均等だと考えるケースがあるためだ。全てのステータスは生まれた時は0で成長率も同じであると仮定する。けれど、それは誤りであると、何度も指摘しておきたい。

双子にとって素脳が同じであり、彼らは経験によって個性を持っていくだろう。発達障害者の場合、障害が軽重の差があれ根本が同じであり、その結果、同類の思考の境界が生じる。その脳型にインプット・アプトプットすれば結果が似通るのだから、個性というのは脳という臓器の如何に依存している。

発達障害者の場合、素脳の型+障害という形で性質が決まると大雑把に仮定する。そして、私たちが個性を強く認識するのは摩擦が生じた際なので、障害の結果としての摩擦が繰り返されることで、その個性が意識され、素脳の型としての微妙な差異は無視される。その結果、自分の個性は社会から排除されるもので、個性は障害に起因しており、自分はそれ以外に変えようが無く価値がないと決する。

双子の自分や相手が嫌いという場合も、天性のものと個性との分かち難さに起因することが多いように見受けられた。同じであることを前提に「双子だけど…」と比較され優劣を検討される重圧に耐え難さを感じ、嫌厭するのだと思う。

発達障害者側から言って、それはとりわけ自分が上手くやれない立場にいて「社会でうまくやれている人もたくさんいる」と書かれた記事を読んだ場合だろう。希望を持たせたいのだとしても多くの場合、逆効果である。兄弟を比べるのと同じ発破をかけて焚き付けようという意図から来るのだろうが、私が思うに成功体験の少ない人間には逆効果である。何れにせよ、それで相手に抱かせるのは無理解と不快の感情だろう。

そうした心無い言葉で雁字搦めにされ、健康な意欲と可能性とを失わされる。そういうのが私からするとありがちなステレオタイプだと思う。結果ではなく、その人のイデオロギーで思ったことを言ってしまうことが自然で良いことなのだと思っている場合、そういう風になる。論理ではなく情緒を優先した結果、というべきか。

安保デモで見てきたように、直観的で素直な行動が何でも正しい、と思い込んだ行動は誤りを招き当人は過ちを過ちと信じない。地頭の悪い人が特にそういう行動をとりやすく悪循環させやすい。

無知や馬鹿で粘り強く物事について冷静に考えられない頭が全部悪いのである。

ただ…残念ながら、多かれ少なかれ人間は馬鹿ばっかである。後天的に教育で賢くしないとダメだと思う。

発達障害者は猶更馬鹿なことが多いが、だからと言って健常者はそれと比べれば多少マシになるくらいで、教育されない自然な状態では人間はやはり愚かだろう。ドングリの背比べをして優位性を確認して安心したところで一体何になるだろう。自分が人間として間違っていないと、どこで何によって判断するというのか。

要は、私が健常者だとして、発達障害者や知的障害者、あるいは自分より頭の悪そうな相手を見下して、自分はそうではないからと言って「大丈夫だと安心すること」に何の保証があるのだろう。そうではないからと言って、自分の頭の出来が全肯定されるという論理は誤りである。

これは逆も然りである。発達障害者や知的障害者の頭の出来が悪いからと言って、全ての考えが愚かで馬鹿で誤りである、という

ことにはならない。

頭の出来や精神疾患は思考の上でのハンディキャップである。私はドライバーであり、頭の出来というのは車の性能である。タイヤが歪んでいて真っ直ぐに走らない、とかエンジンが故障しているとか、燃費が悪いとか、窓ガラスが曇っているとか、時速20kmしか出ないとか、頭の出来というのは、そういう問題だと私は感じている。

だから、最終的にはドライバーの判断によって、(人生を)キチンと走れるかどうか、というのは決まってくる。健常者でも脇見運転をしたり、飲酒運転をしたり、あるいは偶然の事故によって、失敗する可能性はあるのであって、誰しも自分のハンドルをちゃんと握って操縦しないといけないのだ、という点には変わりはない。

私たちは文化的に自分と車を一緒くたにする傾向があるが、それは過りだ。頭も身体の一部であり、私が操縦すべき身体に他ならない。思考は脳(身体)に影響を受ける。脳の機能障害も結局は足が無いとか腕が無いのと同じ身体障害である。私が安全で快適なドライブをし難くさせられるという点で同じである。

そのハンディキャップを理解し安全快適なドライブをするにはどうすればいいか、それが人生の問題の中心であることは誰でも変わらない。

そして、乗ってる車が違うのに、自分と他人を同列に比較しても仕方が無いのである。