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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

自殺は人間特有ではないんじゃないか

動物も自殺すると思っている。

仮にそれが真だとして、人間の自殺を特別視したいのは、

社会批判を恐れるためのような気がする。

人間社会が構造的に個人を抑圧し自死に追いやる=自然界と比べて精神的な苦痛が大きい、

ということを見ないようにさせているんじゃないか。

自然界の場合、動物は自分の力で生きられずに死ぬが、

人間社会の場合は生きようとすれば生きられ、他人の力で延命させられるが生きたくないという状況が多い感じがする。

ストレスや精神的苦痛が社会問題としてクローズアップされてきたのが最近なのかもしれない。

日本としては根性論や平等論が長く根付いてきた。

広く知られるべきは人によってストレスに耐えられる能力が異なるということだろう。

肉体的苦痛、精神的苦痛、疲労、などに関して、生き死にと同じくらいよく考えられて欲しいと思う。

幸福と不幸という二項対立が使われるが、不幸の内訳となる大きな問題は苦痛や疲労、恐怖や不安である。

生死なんてものは、正直、より大きな苦痛や疲労、恐怖に比べて、優先しない。

だから、そうしたものに襲われて人は死を懇願するわけである。

死はそれ自体、大きな不安や恐怖だが、実際的な現実に直面する不安や恐怖、苦痛の前に天秤に乗せられ、

しばしばそちらの方がマシだと選択されるわけである。

大体、そういうものが自殺の中には入ってくるので、

私は自殺をだの禁忌だのとは捉えない。

死んだ方がマシだと自己判断するような状況はままあるだろう。

貧困、暴力、疲労、…過度の恐怖や不安に叩き落されるような状況もまたおかしいのだ、と社会に認識して欲しい。

正直、それが村社会的な集団の社会システムによってもたらされる社会悪によるものが多いと思う。歴史的に貧困なほど、社会的排除が進み、その社会において評価されるような生産能力の無いものは切り捨てられる。欧米中心の近代社会の発展はそうした排他の原理をなるべく招かない様にするという方向性だろう。

女性、老人、子供、奴隷、異民族、異人種、障害者…等、集団に協調(協力)する能力の低い弱者がまず切り捨てられるような余裕の無い社会から改善されてきた途上が現代社会だという印象がある。

福祉国家というのは最終的に世界に属する全ての人間を包括し人権を保障するのが理想だが、現代は途上である。国という単位で何とかというレベルだろう。教育の施されない人間の無制限の流入に等、先進国は耐えられない。普通に考えて先進国で耐えられるレベルの知的教育を万人に施せるようにならなければ、移民の自由など完全には認められないだろう。ただ現在ではまだ最低限飢えさせないようにというレベルの話に留まっていると思う。

移民を受け入れるなら教育を完全に保証して、彼らの子供の次世代を自文化に取り込めるようにしなければ利益にならないだろう。要は移民の子供が日本語を使えるようにしなければならない。それこそ、親は関係なく子供を導けるような仕組みが必要で、大学教育でも能力に応じて自由に教育が選べるようにしなければ、貧困の連鎖で米黒人社会みたいに何世代も硬直して流動化せずに固まってしまう。

社会保障を満足にせず親や家族に依存しようというのは、貧富の差を括り付けて縛り付けるのと同じで、同種の人間が固まって暮らす原因になる。そういう意味で合理的でなく明らかに文化的衰退を招く(のに執着している気がする)。家族という括りを個人に分解し個々人の生活を国で保証した(ベーシックインカムか無条件の生活保護)上で資本主義なり競争原理なりを働かせるので無ければ真に四民平等とは言えず身分社会を暗に着た奴隷制である。それでは先進国的なスタートラインにも立たない。

というのは、能力的に劣る人間がスケープゴートにされるからである。遺伝と環境が全てであり、それらに見放された人間が家畜のような扱いを受けるようではいけない。生まれによって蹴落とされて人道が穢されて良いような社会であってはいけない。重要なのは、それがその人が能力的に劣っていることも含めてである。

そこがどうしても一般的に非難して良いという気持ちが強いように思える。しかし、能力は偏差で環境と同様に明らかに選べないという現実が無視されているように思えてならない。高度経済成長を経験してきた日本人は人間の能力が生まれながらに平等ではなく環境は選べず努力は限定的である、ということを信じ難いのかもしれない。

別に馬鹿を医者にしろ、と言ってるわけではないが、馬鹿に生まれた時、泥をすすって生きるかさもなくば死ね、というのはとても残酷な価値観だと思う。そういう極端な現実があると思うわけだが。

私は馬鹿や阿保に万一生まれついてしまっても救われて良いと思っている。というか、私自身が発達障害というハンデを負って生まれてきているので、そう主張する訳だが。難民や移民の問題がクローズアップされると、そういうマイノリティの問題が隠されてしまうと思う。正直、難民や移民の一定層より私の価値が低いだろうから。そして、能力のある彼らが救われないでいるからである。「アフリカの子供は満足に食べられないのに好き嫌いするな」という理論である(苦笑)例えば、そのことでワーキングプアの人間など少なからず口封じされると思うが、それとこれとは別の問題であるのにも関わらず黙らせられるのが不当なのである。そして、そのような問題は個人にとっても分かり難いのが問題だと感じる。

他人の辛さと自分の辛さを安易に一緒くたにして論じられるものではない。例を挙げればワープアの労働者と引きこもりの辛さは天秤に載せて測れるものではない。が、感情的には容易に測れると思い込む。状況も立場も違う人間の辛さを安易に測ることはできない。生活苦をある程度想像することはできても、金持ちが自殺することもあり、その苦悩を同じ物差しで推し量るのもまた難しいだろう。

けれど、立場が違うこと。常識が違うこと。何かが違うこと。そうしたズレがあるということは、私は大事な考えだと思う。みんな同じという考えが私は嫌いである。好きなものは分からないし嫌いなものは多いが(´・ω・`)特に私が「みんな同じ」と言われるのは確固として違うと言えるのだから。

思うに、彼らが苦労していることは想像し得るが、それは「同じように」では無いだろうと思う。苦労の総量が違って私の方が苦労していると主張したいわけではない。性質が違うだろう。報われない苦労をするのか、報われる苦労をするのか、によっても苦労の感じは違ったりする。その人たちの苦労がどういう類のものであるか、一々、細かく違うような気がする。天才の苦労が一般人に推し量れないように、発達障害者の苦労も一般人には推し量れず、私には一般人の苦労が推し量れない。

だから安易に「みんな同じ」と言って欲しくはない。私の事情が相手には通じ合わないことを思い知るからである。わからないということがわからなければならないのだが、わかっていることになっているというのなら理解させることは遠く感じられる。

正直、私としてはその時点で分かって貰おうという気は無くなる。マジョリティ側の人間はこう感じなければ間違いであるという思い込みを持っていることがある。そして、それに同調して欲しいという人がいる。一般論を言って共感し距離を詰めたいのかもしれないが、一般論が通じる相手ばかり相手にしてきたのか知らないが、それが通じない場合に相手が間違っていてオカシイ人間なのだと考えることがある気がする。多分、日本のような全体主義的で単一民族に特有の特徴だろう。

そうした健常者の問題は自分や自分の社会(周り)こそが正常だと思っていることである。長いものには巻かれよ、というわけだが…。郷によりては郷に従え、というのも好きで、郷に従ってる自分こそは正義だ間違っていないと思いたいらしい。それがアイデンティティを脅かされる不安から彼らを少なからず守る。同一性が保てると寧ろそうなるのかもしれない。イデオロギーに自分を投入できるのだ、とwikiには書いてあった。

健全さから来る問題というべきなのだろうか。猿は長らくリーダーを頂点にする縦割りの社会だと思われてきたが、それは人間が作り出した環境に彼らが置かれた結果、観察されたもので自然状態ではリーダーは不在であるという。人間も特定の環境下に置いた結果、そうなっているというべき(世界には色んな社会があるわけ)であり、違う環境なら違う常識を示すだろう。

「健全な肉体は健康な精神を作る」というのも思い込みである。健康な精神も環境に左右されて制限された判断を下す。十分な情報を個人が何時でも持っているとは到底思えない。結局、専門家頼りになる社会を考えればそれは分かるだろう。そういう社会で自分が正しいと常識に疑いを持たない人間は大体どこかおかしいのかもしれない。

狂人は自分が正しいと思っている、というのがあるが、だからと言って、逆に自分は間違ってるということでは無いのだが…。まぁ、その辺もなんだか分かり難い話で、私は虚無主義になってしまった。要はそれは妥当性を語るロジックが何時でも必要になるのに、無条件に正しいと思い込めるとすればオカシイという話である。

まぁ、大体、妥当でなかったり、理屈が通ってなかったりするものを信じてしまえている、ということが多いと思うが。民間療法とか呪術とかそういうのを信じようとするのと同じである。それは健常者であれ、そういう文化にいれば信じてしまうかもしれない。理屈を語るにはデータが必要になるから、データが無ければ批判し難くなる。

右利きや異性愛などのマジョリティ側の理屈は「周りはみんなそうしている」である。日本社会でも健常者の理屈の根拠は「みんなそうしている」となりやすい。全体主義も民族至上主義もそういうマジョリティの理屈に堕ちやすい。構造的には安保デモで統計を持ち出して「みんな反対している」と言うのと同じである。

発達障害者は人口の5%くらいだとするなら、常に自分の感性を9割5分否定されることになるだろう。けれど、正しさの問題はロジックの妥当性であり「大体みんなそうしているから」というのは、それっぽくても筋は通らない。