LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

ぐるりのこと 感想

宮崎勤の話。死刑は妥当ではなかった、と思えた。精神的に大人で自分たちと対等である、という価値観に基づいて、裁いていると思われるので、精神的に大人でもまともでもない被告を「自分たちと同じ」という、その論理で裁くのは適当ではなかっただろう。社会的に許される行為ではないよね、という社会的同意の元に裁かれた、という感じ。まぁ、現代は是正されているか、というとそうは思えないが。狼少年を自分と同じ人間として扱うのが妥当かどうか、という話である。

被害者遺族の感情や一般的な人間はかくあるから、という上から見ている視線を感じる訳である。自分たちにはこれだけの能力があって、それは無いのはおかしい、よって同情の余地など無い。その理屈は、資本家vs労働者とか、身分的、地位的格差に則った相手の立場に寄らない見方だと感じる。少年法なんてなくせ、という見方も同じであり、子供の未熟さを無いことにして、自分=大人の立場しかないものとして断罪しようとするものであろう。

それは差別的で排他的で自己中心的、ようは知的じゃない幼稚な視点だ。非論理的である。何というか弱肉強食で弱者は淘汰されて当然という立場であり、被害者遺族もそうした原始的な「目には目を」という復讐法的立場に立つのを当然とする社会だと思う。感情的に理解できても、それに(裁判官まで)乗るというのは未熟である。日本の全体主義的、村社会的な悪い側面だろう。

本当に人間が平等で対等であるエラーの無い機械みたいな存在(みんな同じ)なら、残虐な行為に対して不良品としての死刑は相当だろう(それが常識として罷り通ってしまう部分がある)が、人道的に見て、この犯人は「社会に参加させるべきではない」というのが私の抱いた感覚である。

死刑に処するのが手っ取りばやくコストも安く感情的にも揺らがされず面倒臭くないのだろうが…。社会的排除を受けてきた私としては、その社会はグロテスク過ぎて肯定できないものだ。犬を旅行に行くからという理由で保健所で殺処分してくれと頼む飼い主の精神性と大なり小なり同じである^^;引きこもりもいじめ被害者も精神障害者も異宗教の人間も面倒だから消えて無くなってくれ、という感情は理解できるが、そんな価値観が公的に肯定されてしまったら優生学まっしぐらでおしまいである。

人を噛んだ犬が銃殺されて犬は同情され警察が批判を浴びたが、犯罪者は同情されない。

犬は飼い主の責任になって人間は違うのか?私からすると、その矛盾を見ない世間が酷く歪んで見える。

アウトサイダー』は世間が実に救いようの無いものだと見る者が多いが、同じような視点だろうと思う。

まぁ、非論理的に見えるのだと思うが。

発達障害者と比べた時の健常者の特性は社会のイデオロギー(都合)を優先させて論理を無視(本当に見えない)してしまえること(らしい)。逆説的に言えば、論理的で在りたい健常者は自分がどんなイデオロギーに自己を没入させているのか見当した方が良い。説明を読んでみる分には自己同一性は社会的イデオロギーと不可分なのかもしれない。その偏りが見えないと異文化について自文化を並べて等質に検討するなどできないだろう。

我々(発達障害者)は非論理的な行動の理屈をさらに探らねばならない。一方、健常者側はそういうものだと思って右に倣えをしているだけで、そんなものの事情などは大概知らないし問題意識も抱かないようだ。そして遂には都合に押しつぶされて鬱になったり過労死したりしているわけだが…。

ヨーロッパの難民歓迎もそういうイデオロギーを優先させて論理を無視している部分が見えるから、本質的に健常者がイデオロギーを優先し論理を無視しがちであるという性質は変わらないのだろう。きちんと批判するためには、知識や学、探求心が必要になる。リテラシーというべきなのだろうか。私も大層に語っても十分に理解しているわけでは無いが。私が健常者と呼ぶのは一般的な人間という動物のことである。健常者は神ではない。どうも人間が(障害者でなくとも)不完全であるという自覚が個々人には足りない気がする。傾向として言われない限り無視していて気に留めないだろう。

その自信は生きるために必要なものだが、同時に失われている視点もある、という話である。寧ろ、自信が無ければ生き難くなるのだから、矛盾する指摘なような気もする。まぁ、我々が非現実的なのである^^;私なんかはだからこそ生きるのに向いてないのだ。ただ、その非現実性から指摘できること(理想)は多い。

まぁ、こんなのは上辺の話で実際的には彼らをどう受け入れるシステムを構築したら良いんだ?という話になるのだろう。どうしても受け入れられないと考えられる犯罪者は終身刑が妥当であると私も思う。ちなみに、そういう人間がきちんとした社会で普通に考えて社会を潰してしまうほど存在するとは考えられない。と、同時にそういう人間が確率論的に生まれてきてしまう事実も常識的に受け入れる必要があると思える。色々なまともさやら正常さやらが恵まれた結果であり限定的であることがもう少し感覚的に受け入れられたら良い社会になるだろうに、と思う。