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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

ぐるりのこと 感想2

後半で出てきた女性の被告は、発達障害だったんだろうな、と思った。特徴から見て明らかである。

その感受性のあり方も行動の極端さもやっぱりなぁという感じである。社会によって精神的に追い詰められた結果、という風に思う。こういう事件の場合、被害者は自動車事故に遭うようなもので、社会そのものの作り出している闇に巻き込まれるに過ぎない。

無関係の他人、というのは免罪符になるわけだが建前で誰しも巻き込まれる可能性がある。大体の人は「じゃあ、どうしろというのか?」という答えの無い問いに皆巻き込まれている。けど、そういう問題を何とかするためにこそ、弱者保護や貧困救済などといった福祉社会保障の拡張に取り組むのだ。

でなければ、シリアの難民みたいに無関係なことに巻き込まれて生活を奪われる。欧米は無関係なことに社会保障費を割かねばならないし、彼らと直接関わる国民も無関係な人々に煩わされねばならない。それで本当に無関係なのだろうか?

無関係では無いんだろうな、と私は思う。正直、そのことだけでも飲み込んでおいて欲しい。

逆ギレして投げ出すのではなく…。

ぐるりのこと。の翔子の失った子供に対する感情の言いようの無い表現などは、素晴らしかった。夫のカナオも辛抱強く彼女を待ち支えていると思った。「残念。」とか言葉にすると、適当じゃなくて、相手の感情を逆撫でするわけで。カナオの言葉の選び方や慎重さが優しいと感じた。あのくらい空気が読めると良いのになぁ。

翔子の兄の嫁、吉田雅子は言葉を選ばない不良みたいなキャラクターで、丁度、カナオと対極のポジションなのだろう。空気読めない人である。利己的で相手の事情は考えず不躾な態度で傷つける。翔子の兄はよく夫婦をやれてるなと思った(´・ω・`;)視聴者によってはカナオが慎重過ぎるように見えるかもしれない。けれど、私からすると理想的な相手だと思う。まぁ、監督からしてもそうなのかもしれない。

『旦那が鬱になりまして』という映画を思い出す。夫婦の感覚はこれに似ている。「言葉にしないと伝わらない」という人とか「なんでも言葉にして伝えるべきだ、伝えられる」と思っている人がいるけれど、鬱の頃の翔子のように表現しようの無い感情というものがあるし、表現できない人もいる。上手く言葉で表現ができないということで苦しむわけである。

何でも上手く言葉で表現できるわけでは無い。そして、そのことで人間は苦しむのだ、ということは銘記したい。上手く解釈できなければまともな行動に結び付かない。翔子の鬱病の描写では自殺が仄めかされていたが、心理的な強い抑圧と出口の無い感覚とから逃げる手段として死という通路が開かれている。他に適当な(逃げ)道が見当たらないとき、唯一「問題解決の手段」として選べるように思われるわけである。

発達障害なんてのは視野が狭くなるので、特に自己解決の手段が見当も付かないというのが多い。そういう時、他人から見て、問題の解決が容易でも私からすると皆目見当も付かないというのがある。それで頭が良くないばかりに間違っていそうでも藁にも縋ってしまう、ということは有り勝ちで責められないと思うのである。カナオのような適切な導き手がいる人ばかりではない。

無縁社会なんて言葉があったが、そういう人って多いのである。家族が自分に対して赤の他人のようであることもザラで、そんな時、誰も助けてくれる人(メンター)がいなくなる、という人がいる。そういう人たちを一体どうやったらまともな人道的な社会と繋げられるのか、というのが今日的な課題だと思う。

でないと、そういう人たちはアングラな世界に引っ張り落されるわけである。暴力団とか風俗とかホームレスとか犯罪者とか…ぶるぶる(´・ω・`;)正直まともに生きてる人でさえ運が良いことを祈り続けるしか無い(不運が起こるとそれだけで転落する)社会ってのは不安で覚束ないと思うが。そんなに綱渡りしたい人が多いのかな…と。

談話とか読んだときに、そういう格差社会の暗い部分について全く触れておらず、日本を豊かな社会だなんて言ってるあたりに私は凄く不安を感じましたが…あぁ、やる気ないんだなと(´・ω・`)一番、手出しできるところがやる気無いってのはどうなんだろう…っていう。

能力ある人は自分の生き残りしか考えないってのは社会構造の結果ですよね。正直、エイズの薬の値段を55倍に引き上げた経営者の考え方は社会の一部の人間の考え方を明らかに代弁していると思う。「彼はただやり方を間違えただけだ」と思ってる人が実は多いんじゃないかな。

そういう常識を持った人ばかりだと専門的な教育のレベルが高くても社会は良くならないでしょう。富が増えても殆ど上位で独占されるわけですね。自分が生きるために他人を蹴落とせと教えられてきた人ばかりが生き残るような社会を肯定する羽目になる。で上辺だけ人道だのと綺麗ごと(と分かって)言うわけですよね。それは『アウトサイダー』から見たら「この人たち救いよう無いわ~」って絶望しちゃいますよ(´・ω・`;)

実際、VWの不正問題で見えてきたのって、そういう無慈悲な競争社会でした。アメリカがトヨタを徹底的に調べて不正を見つけようとしてた、とか…。そういう社会で生きてる人たちにとって現実は経済戦争で、人道とか言ってる人間は現実が分かってないことになっているんでしょう。実際には両極端なんですよね…。

それって実際の戦場で「平和なんて偽りだ」って叫んでる人と同じですよね…。それぞれの置かれた現実の位相が違うだけなので平和も戦争も誤りではない。引きこもりの子供を持った親という視点と、引きこもりの子供の視点と、何れかが現実が分かっていないわけじゃなくて、何れもその人の現実にいてその人の現実をフィードバックして感情をアウトプットしてるので。嘘を言ってる確率より、その人の目からみた正直な報告を行ってる可能性が高い。その客観的な正当性はさておき。

例えば、いじめっ子といじめられっ子の問題とか。どちらも何か問題を抱えていて救援されなければならないのだが、いじめられっ子には何の解決されるべき問題も存在し無いと一方的に考えられるような。

他人の立場でものを見ようとする、という視点がそもそも欠けている人って多いのかもしれないな、と思っていて。特に個人主義を思い込んでると他人の立場に立って何の意味があるわけ?という感じで。文化相対主義も「あなたはそう思うのね?ふーん(私には関係無いしどうでもいいわー)」になるわけで。その結果、自分は歩み寄る気が無いけど、君が私の文化に歩み寄る気があるなら受け入れるけど?という感じになる(´・ω・`;)そりゃあ馴染まないわ、と(苦笑)結婚相手とか夫婦とかそういう風に考える風潮が広がってるんじゃないの?ってよく報道されてますよね。一方の極は夫か妻が我慢し過ぎてたりするわけですが…。

アファーマティブ・アクションという視点を全く失っちゃダメですね…。味の素から豚肉成分抜くとか。アレルギー表示とかもアファーマティブ・アクションみたいなもんだと思うんですよね。

相手が嘘つきじゃないという前提はある程度必要だと思う。相手の現実認識からすればそれが現実なのかもしれない。相手がどういう立場に立っているのか理解できないと自分の常識からは、とても信じられず「この嘘つきめ!」と言いたくなったりするわけだが…。けど、自分が相手の立場を理解できていないだけなのかもしれない。勿論、実際、嘘である可能性もあるんだけど。蜃気楼を見ていたとしても、蜃気楼を見ているわけで嘘ではない。1+1=3だという人が嘘をついていなければ頭が悪いのかもしれない…。

エイズの薬を55倍の値に上げた経営者が自分が批判される意味が分からないと述べたのは事実だろう^^;彼はその商売の方法がルールに則っていて正しいことだ、と本当に考えているのだろう。そんな値段では必要な人が薬を買えなくて死ぬだろう、とか言うことは彼には全く関係が無いのである。それが自分と何の関係があるのです?という話である。ズレを説明すれば彼にも批判の訳が分かるかもしれないが熱心に説明して解きほぐしてくれる人が彼の周囲にいるだろうか…。

ただ多かれ少なかれ彼に限らず、人はそういう無神経さを持っている。ISの紛争やシリアの問題、アフリカの貧困や何かが自分に何の関係があるのです?という人は多いだろう。そんなのは計算問題みたいなもので解ける人と解けない人がいるわけである。対岸の火事が私に何の関係があるんです?って言ってたら社会を逼迫させるくらい難民が押し寄せてきたっていう…(´・ω・`;)そういうのは歴史上何度もあるわけだが私たちはその手の方程式を学ぼうとしない。

別に人道や慈悲がどうの、と言わなくても社会福祉は万人に行き渡るようにしないと脱落した人が不法行為で生きるようになるので治安が悪化し平和になんかできないので結局、遅かれ早かれ最終的に社会に必要になる。そういう優しさは偽善でやってるというより、論理的に考えても必要で合理的なんじゃないかと思う。

ただ福島の問題みたいなもので、統制が取れないボランティアなんて邪魔にしかならないので、結局は多くの人は日常に回帰してくことになるわけだが。じゃあ、結局、無関心でいてもいなくても同じじゃないか?と言われると、私としては違いはあるような気がする。募金したりする人も見るので。その経路が適切なら。そういう社会貢献の健全な経路が増えると良いんじゃないかと思うんだけど。なんか、ふるさと納税みたいな感じで(?)。