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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

左利きの死亡率

社会

左利きの寿命の喪失が高いって話の理由の憶測。

左利き→発達障害が多い→独身が多い→二次障害が多い→自殺が多い→貧困が多い

→寿命まで生きられる人間が少ない→寿命が低くなる

江戸時代の寿命が低いのは乳児死亡率や医療が進んでいないため、

寿命まで生きられないことが平均寿命を減らすと言われるが。

独身になるケースが多いのは、勿論、推測でしかないが、

1)発達障害や他の障害

2)虐待や教育環境が悪く社会性が悪い

場合だと思う。主観的に個人に問題が無い場合には、殆どの人は異性と交際する。

そして、仲良くなれるので結婚を考える。

知的障害のある発達障害者の結婚率は5%程度だと本に書いてあったのだが、

脳の障害がある場合、結婚へのハードルが高い。社会参加のハードルも高いので貧困に陥りやすい。

複数の負の要因が重複するのである。

障害があると左利きになる可能性も高くなるため、左利きの寿命が下がるのだろう。

同性愛者等も似た傾向があるに違いない。

そこに差別やレッテルだという反発は必ずあるだろうが、身体障害者に人権を認めるのが本筋である。

精神障害も脳=身体の障害であるので、人と上手く関われない、能力が無いことで迫害し差別するようではいけない。

同性愛が仮に障害に基づく場合でも同様で、

そのことで差別されていると叫ぶ(私は精神障害者のように頭がおかしいのではない!)のだとすれば、

その感情こそ自分に跳ね返ってくる差別である。

要はブーメランを投げているのであって、自分のような人間も人間であることを理解してほしいというより、

社会的排除の集団から自分を切り離しマジョリティ側に入れて欲しいと言ってるわけである。

それは自身をあんなおかしな連中と一緒にするんじゃない!と言ってるわけで健常者の社会の常識を投影している。

そういう社会で生きてきたので彼ら自身、同性愛は(本当は)オカシイと思っているのである。

それこそ鬱病発達障害が努力の足りない甘えであると当事者自身が考えてしまいがちであるように。

だから精神障害者というレッテルと同性愛を切り離そうと試みる訳である。

発達障害者にも診断を受け入れられない人がいるそうだが、そういう心理だろう。

自分自身が悪だと思って差別して排除している集団の中に数えられますよ、と言われるわけだから。

そういう意識なので憤慨するんだろう(苦笑)

それらも同じ人間で誰でも少しボタンをかけ間違えればそうなると分かっていて、そのことが実感として認められているなら、

自分がそこに数えられると言われたとしても、そんな極端な反応は見せないだろうと思う。

同性愛者を受け入れられない健常者の認識こそが誤りである、という研究?とやらの記事が出ていたが、

社会的排除を受ける人々に対して同様に考えている人々は同じ認識の誤りの元で生きているわけである。

だから、人道を考えた時、あらゆる人を欧州は受け入れねばならない、と息巻く人が出たわけであろう。

あらゆる人が人間だからである。けど、そこに抜けていた意識は、では実際問題、社会に受け皿は用意できてるの?

である。同じ人間と考えた結果、能力や質的な差を無視してしまったわけだろう。

例えば、犯罪者でも同じ人間だが、その中身によっては塀の中に隔離しなければ社会に共存させることができない。

異性愛者が同性愛者と結婚したくないとか、同性愛者が異性愛者と結婚したくないとか、彼らが同じ人間ならば、そんな問題は存在しないはずだろう。同じ人間という差別を無くそうとする言葉が人間の中の差異を認めないという差別に繋がっているわけである。日本に指摘される能力平等幻想(主義)に陥るわけである。

アメリカでは「ギフテッド」の考えに見られるように、生まれながらに能力が違うのだ、とする考えが存在するわけだが、それでも人類平等という言葉を何も考えずに真に受けると、隣の人にも自分と同じ景色が見えているはずだ、とする能力平等幻想(主義)を信じたくなるわけである。

その感性の短絡性は犬や猫を人間扱いしようとする飼い主と同じだろう。実際は犬猫にもダウン症知的障害発達障害といった個体の幅が(おそらく)一々見られるわけである。世界を単純化したいなら個体差など考えたく無いのだろうが、一々そういう細かい違いが存在するから長い歴史の中で進化していくわけだろう。

これは男と女を一緒にしようとする見方と同じで、陥りやすい誤った差別に対するものの見方である。男女は生理も脳も異なるのが現実であるが、未だにそこを無視して同じでなきゃならないという人がいる。自然と人工社会を混同している。私はよく書いているが、言葉の中で同一視してしまうことによって、間違いを引き起こしてしまう(分別ができない)わけである。同一視自体は当たり前の人間の認知である。しかし、それが論理的に誤った現実判断を犯させるし、そのまま信じるのは感情的で非理性的というべきだろう。

恐らく、その考えは、健康な人間の判断は全て正しいという、アダム・スミス的信仰に基づいているわけである。発達障害だろうと健康な人間だろうと、自分の直感が何時でも正しいなどということは在り得ない。この文章に反感や違和感を感じる時点で、宗教的に自分(の認識)の身体が正しいのだと信じ込んでいる。自分は合理的で科学的な判断が下せるのだと碌に勉強をしたことも無いのに人間は信じていられるのだ。

アダム・スミスの神の手の理論が間違っているのは、人間が不完全な生き物だからである。キリスト教は人間を神だと規定し、常に正しくあるものだ、と想定し、そこから外れたものが悪であり、排除されるべきだという考え方をしたのだろう。けれど、人間自体が生物自体が、障害があろうとそうでなかろうと、その時の環境に適応できるか否かを試されているだけの未完成品でしかないというのは進化の歴史から見て当然だろう。人間が自然から隔離されて淘汰しあっているという考えは間違いである。猿から一足飛びに何をやっても誤らない正しい神になどなれるわけが無い。