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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

会話が楽しい人と苦痛である人

私は口が重く会話は疲れるし苦痛なことが多い。

一方、会話が苦にならず楽しく、ましてや他人もそうであるとかそうであるべきだ、とか信じている人がいる。

そういう人は私にとって迷惑である(苦笑)

マジョリティはコミュニケーションが好きになることが多いだろう、というのは成長過程を考えれば分かる。

アルノ・メルッチはコミュニケーションが天国と地獄だと言うが、社会性の高い人は天国のような経験をしてきたことが多いのだと思う。

そこで大抵の人間はコミュニケーションが好きなのだ、と思うのである。特に会話だが。

一方、耳の聴こえない人は周りの会話が聴こえないのでグループに入れず、会話という輪から排除され苦しい思いをする。

情報格差だとか何か言われるわけだが、そういう人もいるという話である。目の見えない人は映画が見られないから、映画に行っても同じようには楽しく感じないだろう。

発達障害者も会話には付いていけない場合が多いから楽しく無いし、通訳など何かしらの配慮も無いのだから苦痛が大きい。その場合、どう健常者が考え会話の楽しさを主張したところで私にとって会話は苦しいことである。マニアックなオタクが自分の趣味について熱心に語るのと同じで、到底理解できない。それが彼の周りの9割くらいが同調することであっても。

その辺の常識が変わると良いのだが。

マジョリティ側の気持ちを当たり前と騙り、そうでない人に無理に押し付けないで欲しいのである。

ゲームの会話が嫌だという人がいるわけである。何にでもストーリーが付いていないと嫌だの、人と会話(のキャッチボールを)しなければ面白くないの、というのはマジョリティの発想だろう。例えを出してみれば「風の旅人」のような言葉の無いゲームが良いという人もいる。所謂、雰囲気ゲーのようなものだが。

会話やストーリーという表現は必ずしもゲームに必須ではない。それがRPGでも。漫画なら『ゴン』というような言葉の無い漫画もある。アニメーションは特に動きだけで伝えられるということを割と行う。チャップリンなんかもそうだが。非言語コミュニケーションの方が言語コミュニケーションよりストレスは少ないと思う。ストレスを晴らしたい時、遊ぶものとしては非言語的なものの方が優れているのではないか、と思える。

女性にとって会話は共感が重要で中身は大切ではないという考えも、これを表している気がする。キャッチボールという言語をボールにした運動が目的であり、内容はさして重要ではない、と考えられる。私はキャッチボールも会話のキャッチボールも上手くできない人間なので、何れも嫌いなのである。

運動音痴なのだと考えて貰えれば良いが。ちなみに科学的な理屈としては色や明度の視覚認知の問題がありパースラインの識別ができず、空間の奥行きが感じ難い。そのため、ボールが飛んで来ても(そうした幾つかの理由から)距離感が掴めずボールをキャッチできずに顔面に直撃したりするわけである。恐らくパースラインの問題だけでは無いだろう。

一つの原因ではないという複雑さが発達障害に対する自己理解、他者理解、そして対応のし難さである。模倣の障害等の影響も複雑に運動音痴や不器用さと絡んでいると思われる。その世界の中で私たちは何とか精一杯応えようとしているはずだが、上手くいかないため人生に挫折するわけである。

化物語』なんかはリズム(テンポ)を楽しむもので、会話の内容自体は問題ではないと思われる。『日常系』もそうだろう。私は内容を真に受けて考えるので、そうした作品が楽しみ難いもの、と考える。かといって内容を無視できないのである^^;内容が悪ければ所謂「これはゴミだな」と思ってしまうわけである(苦笑)J-POPなどの歌詞がある楽曲もこの部類である。「SEKAI NO OWARI」なんかは内容が浅いのと批判されたものだが、そういうのは関係無くてリズムやテンポなどの表現を好む人もいるだろう。

私はJ-POPなんて同じような歌詞内容ばかりで陳腐で面白くないと思うのだが、歌詞をスルー出来る人は音楽性を純粋に評価して楽しめるだろう。私はスルー耐性とか無いので(笑)だから、恋だの愛だのというテンプレな表面を「またこれかw」とスルー出来ない人は意味が分からない洋楽とか歌詞の無いジャズなどを聴くのだと思う。歌詞は意味があるとそれが耳障りなノイズに感じられてしまうからだ。歌詞が良いというので嵌っていたアーティストなんかは自分の精神が成長していくと身の丈に合わない服みたいになって卒業したりするわけである。

そんな感じに私も意味の無い会話が嫌いなのだ。犬猫を撫でてた方がマシだという人は意味内容の感じられないリピートされまくった会話にうんざりしているのだと思う。そういう意味で会話の面白さなんて他人に求めても何時かはネタ切れするので、そんなものばかり他人に求めていると醒めて詰まらないやということになる。

漫画やアニメにしても斬新なストーリーばかり期待して、やろうとしアクロバティックなものになるわけである。バカッターみたいな話で^^;人間にとって面白いのはストーリーではない。『ガンツ』や『ナルト』が受けたのはテンポや表現の部分だと思う。『ガンツ』なんて内容は無いので最終回が締まらなかったわけである。大抵の漫画におけるストーリーは楽曲における歌詞のようなものだ。

その辺が分からず、ストーリーやシナリオを決定的な問題だと考えるのは間違いである。よほど時代遅れで陳腐で的外れで反感を買うようなもので無い限り、全体としてストーリーやシナリオは目障りで無ければ問題が無い。

『FF14』の追加ディスクのシナリオは評価されたが全体として衰退するのはなぜか、と言うと、シナリオは大した問題では無いからである。シナリオやストーリーはそれが良いものでもゲームにおいて決定的なものではない。ぷよぷよ、やテトリスがなぜ長く愛されるかという問題であって、ゲーム性の触り心地が良ければ、その形式が長く愛好される。『メタルギアソリッド』みたいなものだろう。個人の評価として『FF14』は中途半端に「新生」(やり直)した結果ゲーム性が気に障るものになってしまったのだと思う。

大抵のリメイク商法がウケないのは、過去のゲームというのはテンポが遅く快適じゃないからである。その上、グラフィックも作りが古いわけだから、ストーリーしか売るところがない。ストーリーは大して重要ではないし、過去にプレイしたことがある人も多いし更には時代遅れであるわけでシステムやグラフィックの不快さのストレスだけが残る。

会話で重要なのは中身じゃなくて形式である。キャッチボールというスポーツがやりたいわけである。だから、壁にでも話してろよ、と言っても相手に納得して貰えないのだろう。パーティゲームを一人で遊んでも詰まらないのと同じ原理だ。多くのプレイヤーにとってネットワークプレイが搭載されないモンハンに用は無いのである。

一人の方が良いという心境は、スマブラで延々一人プレイに興じる方が楽しいと主張することであって、スマブラは他人とやってナンボだろうと思う人が圧倒的に多いと予想されるので理解されないわけである。ただ、私からすれば、その心は、恐ろしいゲーム音痴で誰にでも初心者狩りに遭い搾取され転がされるため、遊んでも面白くない、わけである。

人間にはそのように微塵も才能が無いものもあり、それがたまたま会話だったり、みんなと一緒になにかすることだったり、するわけである。会話というのはコミュニケーションの一つの形態に過ぎないのでコミュニケーションの全てだと思うのは間違いである。本質は中身ではなく行為なので犬猫は口を開かず黙って撫でられてた方が好感度が上がったりする。その手の人々にとって非言語的コミュニケーションの方が言語的コミュニケーションより充足できたりするからである。

自閉症とか知的障害とか会話の能力に制限がある人たちにとっては、会話ではなく非言語的なコミュニケーションによる繋がりや楽しみがあると良いわけである。これらの人々にとっては一緒に飛び跳ねてた方が通じ合えたり楽しかったりするわけである。

けれど、私たちの常識では相互理解というものは「初めにお読みください」という説明文とか「契約書」を上から下まで読んで理解することを指すことが多いのではなかろうか…。会話によって分かり合うというのが、そういうのを指してる気がする。けれど互いに「同意できない」のなら分かり合えるはずもない。

そういう議論なのか会話なのか会議なのかハッキリしない行為がコミュニケーションに勘定されてしまっているんじゃないだろうか…。大抵のシーンで会話に求められているのは気晴らしだったりレクリエーションだったりするわけで、それ(情緒的交流)とこれ(報連相的な何か)とをごっちゃにするから関係が上手く行かなくなったりするのだと思う。親子関係とか。「勉強しなさい」などという会話は命令や要求であって、コミュニケーションじゃないし「最近どうだね」なんていうのも説明を求めてるだけでコミュニケーションじゃないし(´・ω・`;)

親子でwiiでもしてた方が望まれたコミュニケーションが取れるだろう(´・ω・`;)何にしても本質が何なのかが分かってないから外面を取り繕っているだけの効果的じゃない方法を延々と続けてしまうのである。

ちなみにその辺りは物事に長ける上で何にでも言い得るだろうという面白い話である。絵描きや棋士などは、上辺をなぞって修練を積むわけだが、無暗にやってもある程度以上習熟することは無い。なぜそうなるのか、というコツのようなものを見抜かなければ本当に分かったことにならないし本当の実力が身に付かないから先に進めないのである。

けれど、上辺をなぞり続けるうちに、本質が理解できてくるということがあるから、上辺をなぞるわけである。但し、上辺だけを一生なぞり続ける人もいる。そういうのは才能が無いといわれるのである。但し、実際には先入観や固定観念に縛られて機械的な反復作業に堕して見方をシフトできないので一つの方法に呪縛され動けなくなっているがために、合理的な本質やコツに気づけないのである。客観的に見るとその様は愚かだろうが、色々な問題はそうやって進捗する。

本質やコツが分かると、方法は本質をついてれば何でも良いわけである。要するに応用が利くかどうかはその考えが理屈として上辺で無いかどうかが分水嶺と言え試されているのである。人にそれを教える時、教育をあれこれ工夫して本質に気付かせやすくすることはできると思うが、限られた教育的手法の中で、生徒自身が自らの試行の中で察するなり気づくなりせねばならない。教育には時間が限られていることが多いし、そういう事情を含めて、だから、その教育環境で教えられる内容で察せられる能力のある生徒以外は次第に脱落するし、高い水準になるほど本質的に分かることの積み重ねが必要で次第に教えられる能力を持つ人間も少なくなるから先鋭化するほど個人的研究で突き詰めるしかなく、その段階では、いわゆる、気付きの能力の差が才能や実力を画する問題になっていくわけである。

そういうのは、本質が見えているか、見えてないか、と言い表すのが個人的にはしっくりくる。空気が読めない人、計算ができない人とか、そういうのは何らかの要因で気付けず見えていないのだと感じる。けれど、見えるかどうかは同一環境の中でと条件を区切るとき、とても個人差が大きいもので、飲み込みやすい人と飲み込みが悪い人、そして、ずっとわからない人など多様な能力差のモザイクというか偏差を作り出すだろう。

偏差はIQや血や環境や脳や身体で決まってくる。

その手の問題で何時までも上辺をなぞるしか無い人が要するに要領が悪いとか器用じゃないとか能力が無いとかそういう評価を受けてしまうだろうと思う。誰でも頑張れば一定水準にという平等幻想はそうした理屈からは理想として考えることはできるが、時間や効率を考えた時に現実的では無いと思う。飲み込みの悪いある人はそうして義務教育を全部終えた時には定年を迎えているかもしれないし、それでは何のための教育なのか意味が分からないだろう。

ギフテッドの教育の話だが、伸びしろのある部分をできるだけ伸ばし、苦手はそれが小さくなるように穴埋めをしてやる、という風に能力に応じて現実的な時間配分と仕立てとをする必要があると思える。というか積みあがらない積み木を上から延々と落としていくだけという一緒くたな教育システムでは無駄というか時間の喪失であり機会の収奪であり自信のはく奪であり虐待であるとさえ言えそうである。

先に行ける人間はどこまでも突っ走って能力をブーストしてくれた方が社会全体の利になるだろう。ついでに能力の無いことが努力の問題というより才能の問題であって見下し迫害するものではないという文化が広がると助かるのだが^^;