LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

発達障害のいま の感想 解離性障害は信じ難い

P130辺り

EMDRという治療法があるそうだ。個人的に記憶の想起による治療は抵抗が大きく、信じ難いものがある。ただ視線を指示によって誘導する行為等は、精神の安定させる効果は理解できる。トラウマの想起と指示して催眠状態を作り出すことがどう繋がるのかは分からないが。安心して思い出すことができるという思い出してもパニックにならない経験が重要なのだろうか。

解離性障害というのがあって、昔で言う多面人格であるが、理屈的には自我が統合できずに自己の多面的イメージ(ペルソナ)が分裂するのだと思う。合衆国の中央政府が無い状況みたいな。州それぞれに散って独立してしまった状態だろう。けれど、精神科医が話かけて、何人の自分が自分の中にいて、各々が名前と年齢と人格を持っていますよ、と当人が説明できるという状況が想像、理解できない。

そんなにうまく自分のことを説明できるものだろうか。名前はいつどこで付いたのか、年齢は誰がどのように測ったのか…(´・ω・`)精神科医の態度は信じ難い問題は切り分けておいて、提唱されている理論を信じて対応しよう感じに思われる。

(追記)・・タルパというものを考えるにしろ、イマジナリーフレンドを考えるにしろ、人格を切り貼りできる人もいるのかもしれない。そうした才能の中で人格(ペルソナ)を使い分けてストレスを回避する防衛機構の結果、として考え得るか、と思えてきた。IFやタルパ等と会話可能なら別人格とも同様に会話することが可能だろう。

個人的には患者は説明を求められて適当な呼称やイメージを割り振って告げたような印象。医師の問診の内容が適切じゃないための回答だと思う。症状自体はあるが質問に対する回答は言語に落とすために演技された(建て替えられた)恣意的な説明だと感じる。

精神疾患は症状があろうとも演技的な部分が本人に出てくるように思える。わざとらしいというか、わざとやってしまう部分があると思うのだ。但し、普通の人でも他者に対して自然(むしろ無自覚)に演技を行うことが普通であることを考慮するべきだろう。本来、演技していても脳波を調べれば分かるし演技の必要は無い。演技してもしなくても診断は変わらないからである。発達障害なら生育歴とWAISテスト、他者の証言等で診断する。それでも尚、例えばそのように病人らしく振舞わねば…、という部分が人にはあるような気がする。振舞わねばならないという圧力もあるだろうが。

引きこもり、なんかは、そうした圧力が彼らの症状を悪化させていると思う。面倒なことだ。解離性障害というのも現実逃避的に実際に壊れてしまうのだと感じた。鬱病で死にたいと訴えるのが甘えだと言われる。けれど、甘えでも死んでしまう、という感じである。心の脆弱性に対してレジリエンスという概念があるそうだが、ストレス耐久性みたいな話である。

現実的なストレスに耐えて我慢できる能力が人それぞれで、特に鬱病ではそうした能力がぐっと下がってしまう。だから、普段なら我慢できることでも、甘えだと言われても、耐えきれなく感じ、命を絶った方がマシだと考えるわけである。そして、ほんとに死んでしまったりする。そういう場合、甘え(個人的問題・自己責任)だと言われること自体がその人を損耗させたり、頑なにさせたりするわけである。思うに、鬱が甘えではないということが感覚的に当人でさえ分かり難いから当人も病人らしく変な演技をしてしまうわけである。社会的なアピールにはなっても治療的に言えばそういう演出は逆効果でしかないだろう^^;

精神疾患関係には大抵、そうしたそうでない人からみて直感的に分かり難くい回路が働いていると思う。だから精神科医の質問に対して返された応答が額縁通りの意味であるとは思えない。そういう意味で何歳とか名前と言った話が現実に患者が答えた科白だとしても本人の体験世界の説明として適当なのか疑わしいと思えた。

建前と本音というものがあって、何でも他人に正直にいられる人ばかりではない。中にはプライドのために自殺する人もいるわけであるから。精神疾患なら猶更、なぜ正直でいられると思うだろう(´・ω・`;)なんでも暴露しなきゃ治療にならないと医師は言うが、だからといって暴露できない人もいるだろう。言葉が不自由だとか表現に苦しむだとか。自分が仮に多重人格だったとして、それをどう表現したらいいのか…。

赤ん坊のようなもので、ミルクが欲しいのか、オムツを変えて欲しいのか、必ずしも言葉で表現できない、ということを想像して欲しい。芥川なんかは、あれだけの作家が、ぼんやりとした不安などと書いて死んでるわけで…。その辺が聞けば話してくれて分かるはずだ、と何でも考えてしまう人たちに対する不満である。

だいたい、言葉なんて上手く扱えないので上辺の回答にそのままの期待を寄せられても困るのである。このことから、私は話しても分からないから黙っていようと思うのだが、相手は話してくれなきゃ分からないよ、というわけである(笑)私が上手く表現できないのだから上手く表現できていない言葉をそのまま受け取られても、相手の誤解を招くことがある。

記憶の想起にしても、言葉でトラウマを語るにしても、それが再現VTRのようなもので、リアリティなんて監督の才能に依るのだから

EMDRの効果は過去を乗り越えられたとかそういう話では無いと思う。私たちはだいたい過去と戦って打ち勝ってトラウマ(敵)を倒して乗り越えたいとか強くなりたいだとかイメージするわけだが、そういうことでは無いと思う。

例えば、想起しても不安や恐怖、パニックといったストレスから逃れられるという確信やら実感が持てるということが重要な点だと思う。だから、普通は忘却によって時とともに解消される。けれど、繰り返されたり、迷信のように信じ切ってしまうと、複雑骨折的な(複雑性)PTSDというように恐怖や不安を招く状況から自分が逃れられる実感や確信が簡単には精神的に持てないのだと思う。

というか、発達障害のように不安や恐怖と実際的問題(障害と社会的排除)とが結びついている場合、その当人の予言は高い確率で的中する=いじめられる、わけであるので、安心・安定できる場所にいるという実感や確信が持てるわけもないのである。実感や確信を持ったとしたら、それこそ狂った場合だろう。

つまり、社会的環境や生活状況を変えるという所在を変えるという方法が治療に必要になる。自分がいられる環境へ逃れたり、敵を倒したり強くなることは自分に期待できない(可能性があるとしても)から、その精神的負荷の袋小路に釘付けにされるわけである。

本質はここから安心な環境へと移動したいという話であり、救ってほしいわけである。

EMDRというのは身体的感覚を利用しているので自己啓発セミナー的な感じがする。オウム真理教とかも、そういう方法である(酷いw)。宗教の本質は理屈が正しいかどうかではなく、精神的に安心・安定できるかどうかである。抗うつ薬等の治療も物理的に安心・安定させてしまえ、というものであって、EMDRも当人が良ければ想像するのがフィクションでも何でも問題無い心身への作用だろう。まぁ、医療目的の大麻だとか、効果を悪用しなきゃ良いのである。

話が逸れてきたのでやめよう(´・ω・`;)