LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

録音笑い テレビ

TV番組を見ていて、バラエティとかコントとかで笑い声を入れるのだが、

やめて欲しいな、と思ったり。でなければ副音声で笑い声やらを無しにして欲しいな。

テロップとかもね。設定で消せると良いな、と思ったり。

笑いどころが分かるように、と説明しているところがあったが、それは私(視聴者)が決めることでしょ?と。

笑いたくて見ているわけでは無いので。混同するとこかもしれないですが。結果じゃなくて過程が大事なので。

面白かったら笑うし面白く無かったら笑わないし。誘い笑いで笑わせようとすると、何が面白いのか分からなくさせられる。

ここ笑いどころですよ、とかね、素人?に望んだリアクション求めないで欲しいかな。製作者側に何で気遣わなきゃいけないわけ?って気がする。思うに劇場のノリをTVに持ち込んでるんじゃないですかね。でも劇場だと空気を読んで笑ってくれる人ばかりじゃないのが空間的に分かるので違うと思うかな。人の気配と笑いの割合みたいのを感知して、あぁ、そういうところで笑う人もいるんだな、みたいに思う。TVだと全員笑うのが当然でしょ?みたいに強要を感じるかな。

「いいとも」みたいに観客に同調とかお約束のノリを求めてるんですね。ライブでアンコールを全員が言ってくれなきゃダメでしょ?舞台ってのは演者と観客で作ってるものだよね?みたいな。そういう同調を前提にする作りがバラエティの中には見えるかな。参加型なのかもしれないんだけど、価値観が違ってくる時代に合って無いのかもしれない。私が合って無い可能性もあるが。

ワイプとか。こういうリアクションするのが普通ですからね!って、こちらに反応のお手本を見せてる感じがします。可哀そうなVTRを流したら可哀そうな顔をしなくてはいけない…みたいな。どのTVのバラエティを見ても、そんな感じだと胸焼けしちゃうんじゃないかな。あれって一種の洗脳になってしまっていると思う。芸能界って世界の住人に汚染される感じがね…。それと彼らのような極端な世界に住んでる人たちが自分たちのような人間が平均的日本人だ、みたいな顔をして罷り通ってる感じが嫌かな。

TVに露出したい、っていうだけでも人を選んでると思うんですよ。芸人になりたい、とかいう動機で入っていった人とか、目立ちたいと思って入っていった人とか、独特の気質の人間が抽出されてると思う。そういう偏りのある世界だ、と考えられないと彼らの主張が僕らの主張にすり替えられてしまう現象が起こると思う。芸能人も何かみんなの代表か何かのように勘違いしていたりする人が中にはいる感じですが…。金や権力や人気で公正な判断力は買えない。何かのプロにしても能力と人格は別なんだけど、昔から日本人は能力が高い人に人格も付いてくると思いたいんですよね…。

そして、能力が高くて評価されてる人もまた、それが自分が肯定されてると受け取って、自分の人格や性格が正しいものと思い込む。それが大体、増長のプロセスだと思う。何かの仕事の能力と人格や性格とか宗教的考えの評価は別なので。一つ正しいと全部正しいと思い込むのが悪い癖だ。逆に仕事の能力が否定されることと、人格や性格の否定とも分けなきゃいけないんだけど、全否定になりがちだったり、当事者がそう思い込みがちだったりする。

人間の心理がそうなりやすいのかもしれないけど。アイドルになりたい、という人なんかは、ラブライブなんかは、アイドルとして評価されることと、自分=性格や人格、考え方を肯定されることをしばしば同一視している気がする。けど、そういう全賭けな期待からアイドルになるべきではない。アイドルというのはファッション(流行)なんだから。

まぁ、自分の価値観も一種の流行と言えるのかもしれないが…。敢えて言うと、芸能人が自分を普通だと思いたくても、その属する世界が普通では無いので、普通じゃいられない、と思うんですよね。政治家やプロスポーツ選手みたいなもんで。一般人(サラリーマン)とは色んな意味で外れてると思う。そして、普通はそれに気づかない。人間は誰でも自分の世界しか見えないから。

そういう世界の人を「常識」と思い込んじゃう人が一定数いるんだろうと思うんですよ、きっと…。狂人と狂人で無い人の違いは、自分が異常だと気付いているかどうか、と言われるけど、本当の狂人は自分を異常だとは気づかない。賢明な人は自分が他人とは違うことに気付くんですよ。色んな意味で。精神障害でもそれに気づける人はいるし、健常者でも気づけない人はいる。

寧ろ、精神障害者は自分が違うこと自体には気づきやすい。日本にいると寧ろ健常者の方が自分が根本的には他人と変わらないと信じている。同じだと信じやすい。それは狂人ですね。周りに健常者や無宗教の人ばかりだからそう思うんですよ。それは自分と違う人たちは異常で本来おかしいのだ、と思いやすい、ということになる。

「呪術師見習いはね、呪術にのめりこんでいけばいくほど、闇しかみえなくなっていく。ふつうの人にはみえない、その世界こそが、真実の力のある世界なんだと思いこむ。……そして、ふつうの人びとを、かるくみるようになる。だがね、ほんとうの呪術師なら知っているもんさ。夜の力と昼の力が、たがいにおぎないあっていることを。……いつか、おまえも知るだろう。魂のみえない、ふつうの人びとのしたたかさを。──あたりまえの日々を生きていける人びとのつよさをさ。

そんなしたたかな人びとでも、ふっとまようときがある。昼の力ではおさえておけない夢をかかえることがある。──呪術師はね、そんな人たちが、思いっきり飛ばしてしまった魂を、死の縁ぎりぎりのところから、つれかえらねばならない。夜の力と昼の力の境目に立っている、わしらはね、夢の守り人なのさ……。」

『夢の守り人』上橋菜穂子P103

この呪術師はマイノリティと読み替えるかアウトサイダーと読み替えることができると思う。力を持つ人は、普通の人びとを軽く見る。これは自分が特別な人間だ、と思う人は、やはり普通の人を軽く見る。子供が大人(詰まらない労働者)を軽く見るように。でもそれは昼と夜との違いだろう、と。幸せかどうかとか、詰まらないかどうかとか、とは関係なく、万華鏡のように人間が環境の中で見せる位相の中に彼らも私もいるわけで、そういう人たちを単純に正義と悪みたいに見たまま裁けると思わない方がいいかな、と思う。

自分の幸福だけがすべてだ、とか自分の選択だけがすべてだ、とか自分の運命だけがすべてだ、とか自分の不幸だけがすべてだ、とか自分の痛みだけがすべてだ、とか思うと、現実に対するリテラシーを失う。狂人か狂人でないか、というよりは、自分の世界にのみ没頭して住んでいるか、外の世界が見えているか、という違いに見える。それは独我論というか島宇宙というか。引きこもりの人間もそうだが、民族とか宗教とかの同質性の高い集団の中で生きていても、その世界のみに住むことになってしまう。そうするとその集団の倫理が誤っていると自分が誤りを侵すということになるわけで他人との相対性も見えない。私、家族、学校、会社、国家、宗教…とか、グループで括れて没入できるなら島宇宙化できると思う。

ここでは農民と呪術師という構図だが、健常者と障害者と捉えても良い。さっきは、一般人と芸能人という構図だったわけだが。まぁ、一般人というのも雑だろうが。成熟の一つの条件は自分と他人を相対化することである。自我は親の愛情を内面化して安定するというが、親という他人の命が自分と同等以上の価値を持つというような形で自分と他人の命の重さが比較されるものになるんじゃないか。唯物論だと他人は哲学的ゾンビかもと言ったりするわけだが(´・ω・`;)孤独な人間は他人を内面化して支えにしない・できないので束ねられていない矢のように折れやすい。他所に支えが無いというべきか。

要はアウトサイダーというのは誰かを内面化しないので自立せざるをえないわけである。内面化しているというのは集団の意識に帰属しているという認識を自然と考えるため、ある意味では集団のイデオロギーに自分を没入させるわけであろう。そうすると普通の人は狂人(信じる人)だが、アウトサイダーという孤立者は狂人になれない人(不信の人)である。言葉は悪いが生まれ方を間違ってるのはアウトサイダー側なので寂しく不幸である。そして、人間の生活を支えているのは普通の人びとである。ただ、引用したように文明社会においては両者は昼と夜の関係性だろう。というか、呪術師の話は『アウトサイダー』の話にしか見えないが。

単純にマイノリティと呼ぶなら、彼らは文明の枠の外に出なければならないというその性質ために、文明の枠を広げられる人だとも言えるわけである。それは大抵、困難な面倒事だろうが…。

例えば、だからこそ、自分が特別で、普通の人びとを軽視できると思いがちだが、それは間違いである。まぁ、ODAを受けてるのに反日する中国みたいな感じというか…、ODAをしているのに人質として邦人がテロに巻き込まれる感じというか。まぁ、主観的には迫害ばかり受けてると思う(それも正解かも)ので、死んで当然でしょ、と思っちゃう感じである。引きこもりが親に養われつつ人間性を全否定されて切れてSATUGAIしちゃう感じであろう。例えば『夢の守り人』のタンダは兄夫婦にキレても良いと思えるだろう。

正当性がありそうなのにキレないのは何故か、というと、相手の立場と心情を理解しているからである。まぁ、互いにそうして相手の立場に立って理解できるのが理想だろう。それが中々できないのが人間だが。少なくとも私にとって成熟とは困難な課題である。