LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

親不幸

最近、自分がとても親不孝だったな、と思うんですよね。親が嫌い、憎い、苦手だ、という気持ちが離れて随分すると、自分が悪かったんだな、と思ったりする。逆もまた然りというものかもしれないが。

 

発達障害者というのは問題児である場合が多くて、その結果、親は苦労するんですね。発達障害者自身も自分がなぜこのようなのか混乱の中にいて、些細なことで他人とぶつかってしまう。そうすると家庭や学校にいるのが苦しくなってしまいがちだろう、と。

 

それで自分はここにいるべきではない、とか、違う居場所があるはず、と思って、どこかへフラッと行って帰って来ないような人がいる。まぁ、携帯のアドレスをリセットするように人間関係もリセットしてしまうんですね。親でも兄弟でも。

 

そんな感じで過去を「あの人たちとは上手くいかないのだ」とか「あの人たちは悪い人だ」とか「親に恵まれなかったのだ」と言うのだけれど、ある程度距離を置いた時に、私自身の非が見えてきて、必死に育てようとしていた親の姿とかが見えてくるわけですよ。私が大人だったらもっと上手く関係が築けたのかもしれない。家族を引き裂き彼らの自信を損なわせなくて済んだのかもしれない(上手く親がやれなかったとかいう…)、とか。善くしようと思うんだけど悪くなってしまったという問題に関して、それに関わっていた人たちについて考えると何とも言えない気持ちに圧し潰されそうになりますね。

 

「悪い人なんていなかったんだ」というと気持ちのやりどころが無いですね。ただ、世の中は、きっとそういうことの方が多いと思いますが。私たちは悪人より「ただ上手く振舞えない人」と関わることの方がずっと多いんじゃないかな、と。

 

そう考えて、彼らを拒絶した自分自身のことを考えると、酷いことをしてしまったな、と思うわけである。親の死後にもっと親孝行をすればよかった、という気持ちは、何となく分かる気がする。私は親孝行などするつもりはないが。どうしても現状が一番安定しているような気がするからである。

 

過去にしたことは取り返せないし、取り返そうとすると別のものになってしまうだろう。結局、私はその辺を上手くやれる気もしないのだ。私の愚かさや彼らの愚かさを調停できるだけの賢さを私はやはり今でも持っていないと思う。

 

じゃあ、やはり彼らと私とは関わらない方が良いだろうと思う。禍根が残ったままであっても。その禍根を消せるんじゃ無いかという気持ちと、彼らが死んでしまったら手遅れである、という気持ちが私の負担だが…。ただ、それは嘗て虐めてしまった人に対する罪悪感を持ち続けることが重く、償って互いの気を晴らすべきか、という気持ちに等しいのではないかとも思える。

 

結局のところ、それで互いに心の積み荷が下ろせるのだろうか?そして、私の親兄弟はそうしたことをどう感じているのだろう。正直、彼らの心の中から私に対する禍根を消したいとは思うが、そうすることで私に対して彼らが優しくしようとするというのなら私はそれは面倒だと思う。

 

人は優しくされるとその人に靡くもので、それが実の子供なら猶更であろう。つまり、そうすると彼らは私と接触しようとしてくるだろう…。彼らの罪悪感が軽くなれば良いとは思うのだが、同時に、私は私に関わって欲しく無いと思う。その両方を同時に達することは難しい。

 

結局、過去の禍根を消したのは良くても新たに禍根を作る(私に嫌われているのだろう)だけかもしれない…。結局、そっとしておいた方が良いんじゃないか、という気がしてくる。本当に他人に優しくするということは簡単ではない…。学生の頃も思ったが、人から優しくされない人たちや引け目がある人たちは少し優しくすると私に寄ってきて仲良くできるに違いないと思うようなのだ…。そのような期待をしないで欲しい。私は別に好感度を上げようという気でやっているわけでは無い。

 

発達障害者はそれで他人と上手く関わり合えるように出来ていないので、彼らの試みは失敗し落胆することになる。あるいは私に同情し普通じゃない可哀想な子なのだという目で見てくる。仕方ないから私が関わってあげてるんだよ、という姿勢で関わってくる人もいる。対等に近づくべきだが…立場が逆転するわけである。恐らく、犬猫でさえ私を慰めようとするだろう。慰めは必要無いから君たちは対等な者と関わった方が良い。

 

私は他人に優しくしたいとは思うが…優しくするという行為は諸刃の剣である。そして、だいたい私は他人に優しくするということに向いていない。優しくした後、上手く関わっていける気が全くしないからである。

 

結局、他人と仲を深めたくない、という気持ちと、親切にしてやりたい、という気持ちは両立させるのが難しく、私は他人とせめて距離を置くことでしか対等でいられない。関わってしまうとどういう形であれ「特別扱い」にされてしまうからである。だから、敢えて興味が無いふうにせねばならない。

 

私は「こんな私に優しくしてくれるから好き」という風に人から好かれたいとは思わない。結局、それはその人が顧みられない「そんな私」で無ければ、私と敢えて付き合う必要が無いということなのだから。

 

その人が自尊心を回復すれば私は不要になるだろう。その時に、世話になった義理で私と付き合って「くれる」という風になられるとするなら、仮にそうなれば私が関係を切るにしても、私はそういう風に見られる瞬間を何度も経験したくはない。

 

親にしても「自分の子供だから仕方なく面倒を見なければならない」という風に見られるのは、それが仕方の無いことだと思えても、とても傷つけられるものだ。生活保護は未だに扶養義務で個人ではなく家族という枠に縛られているが、それは個々人の自立の権利を否定していると思っている。子供は親や家族の「義理や良心で育ててやって貰っている」と思わされるべきではない…。親もまた然りである。そういう命綱を握られているような関係を私は人道的だとは思わない。それは結構、原始的でグロテスクなものだと思うが…。

 

まぁ、そういう人とどうしても関われないような微妙な感覚は、あまり理解されないかもしれない。私が人格的に厳しくキツく人当たりが悪いから他人と上手くいかない、わけでは無い。そういう分かり易い関係の不和を人間関係の上手くいかなさ、として普通想像するだろうが…。結局、他人から差別されること…同情されたり見下されたり特別扱いされてしまわざるを得ない負担感が私を他人から遠ざけるのである。

 

『声の形』のヒロインもそうだが、他人より多く気を遣われることに申し訳なさを感じ、居た堪れなくなる。足を引っ張っている、という感じを覚える。それに耐えるには随分と面の皮が厚く無ければ無理だろう…。生活保護を拒否するホームレスの類は恐らくそうした感情に耐えられないのである。ワーキングプアでも生活保護を受けるよりマシと思うのは、そうしたプライドだろう。そうした人間の誇りが傷つけられることに精神的な耐え難さを感じるという意識があまり理解されない気がするが…。

 

馬鹿だとか死ねだとかキモイだとか言われなければ心が傷つかないと思うのは安易だろう。必ずしも言葉にされる必要は無い。「役立たず」と言われるのも、暗に自分が負担であると感じさせられるのも私に与える影響は似たようなものである。

 

発達障害の場合、それは思い込みでは無い。まぁ、思い込みでも憎悪するものだが。自分の思い込みで無ければ「思い込みだ」と思うこともできないのだから…。その差別は仕方の無いことであり、同時に私は差別に耐えられないということである。

 

たとえるなら、女子高に一人だけ男子として居なければならない、みたいな感じというか。「そんなの全く気にならないよ!」と堂々と振舞えると言うのだろうか。それこそ頭のネジが外れているんじゃないかと思うが…。

 

正直、私のような人間は、困ったことに、自ら頭のネジを取り外して放り投げる気になれないのである…。寧ろ、普通の人の方が割と放り投げてしまえるらしい。