LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

うたわれるもの&オルフェンズ 4話の感想

どうしても作画を比べてしまう。オルフェンズは作画が悪かった。特にキャラが遠くなると酷い。アトラが畑で初出の時「さくらちゃん」かと思った…。

 

陳腐な恋愛描写…。作画が酷いため、より酷い。三日月は自然?にアトラとクーデリアにフラグを立てている。躓いて転ぶヒロインとか流石のヒロイン力。そしてたまたま傍にいて手を差し伸ばす主人公。それを目撃するアトラ。そして、そういうのをオルフェンズに求めていない私。一体、誰をターゲットにしてるんだオルフェンズ…。おっさんのサウナシーンとか先週よりダメージが…。一体、誰を…。

 

「さくらちゃん」という呼び方。三日月の信頼感を表すのだろう。けど、商店街のおっちゃんかな…と。ちなみに「さくら(ばあ)ちゃん」は流石に年の功、三日月をちゃんと止めて「謝る相手が違うだろ」と諭している。

 

…婆ちゃん呼びは差別的だと放送倫理に引っかかると予見したのだろう。80過ぎでも女子扱い。これがモテ男ってヤツか…。ブローノ・ブチャラティ(ジョジョ)っぽい髪形にもツッコミは入れない。

 

対するトド氏(ちょび髭)「大人の怖さを見せつけてやる!」…流石チャップリン(コメディアン)っぽいちょび髭はやることが陰湿で姑息。その調子で大人力を見せつけて欲しい。

 

オルガさん「まぁ、泳がせとけよ」

 

クッキー・クラッカ姉妹。金髪イケ面から、綺麗なお菓子を貰い頬を染め買収される。名前からして効果は抜群だった…。その菓子、多分9歳のロリ嫁にと買ったやつだけど…。

 

ガエリオ(紫髪)さんは飛び出してきた姉妹を避けた挙句、勘違いで殺され掛かり「た、助け”て…」発言、その後あまりの不条理に「主人公のくせに勘違いで暴力を振るって許されるのかよ!」とキレたところ「雑魚が」と三日月にあしらわれ無様を晒し、妹のお菓子も没収…という不憫属性。死亡フラグまで立った気がする。

 

ちなみにキラ・ヤマトサイ・アーガイルを「僕に叶うわけないだろ?」と潰したシーンを思い出した。彼我の実力差を測れないガエリオさんは先の基地シーンで作り上げていた金髪x紫髪=出来る男コンビの印象を一気に潰してしまった…。

 

=「金髪(だけ)は出来る男(ヤツ)」が正解である。そして金髪は主人公に対し「私には分かる…。君、良い身体してるね」と審美眼を発揮。ホモっぽい。紫髪とは所詮仕事の付き合いだからね…。

 

そして三日月は「ガチムチ」の話題でヒロインと盛り上がるなど、そちら方面においても満更でも無い様子。アトラvsクーデリアと見せかけて、金髪vsオルガという三角関係か…なるほど。『うたわれるもの』でも妙にホモ押しだったが…今週は何かオカシイ。隕石が地球に接近しているのと占星術的な関係があるのかもしれない。

 

監査官の二人はシャアとガルマを思い出させる。

 

マクギリス(金髪)「私をロリコンに仕立て上げた君の父上がいけないのだよ…」

 

ちなみに鉄火団のエンブレムは結構良いと思う。

 

 『うたわれるもの』の感想。ハクは飄々とし過ぎ。ちょっと怖いくらいスルー能力高い…。まぁ、典型的なハーレムアニメでヒロインの好感度は黙っていてもあがるし、ハクは正しい選択を常にするだろう。そういう意味では読める詰まらなさはあるかな…。それを安心して見られるという人もいるが。作画も良いですね。

 

ウコンのような人物は普通、ハクのような人物を嫌うと思う。ただウコンを「出来る人物」として描いているので、同じく出来るハクを重用する。失敗なんてしない。まぁ、マロという前例を知ってるから、かもしれないが。

 

なんというのかエロゲ的なものを感じるというか。KEYのカノンとかと同じ類のノベルゲーのシナリオから感じるご都合感が。例えばハクという人物は常にその設定通りの振る舞いをしなければならない。周りを常にアッと言わせる。普段はアレでもヤルときは100%期待に応える。シナリオの都合に合わない行動は絶対に取らない。不自然でも。喩えるなら、キャラがラミネート加工されてる…という感じ。

 

このキャラがどう動くか、ではなく、物語はその時その時点でどうなっていなければいけないのか、という視点から、舞台にキャラを押し込んで話を作るので、そういう無理矢理感が生まれる。

 

アニメキャラという自由な存在であるはず、なのに更に演技しているような…。例えば、俳優は個人+役という憑依的な二重の存在。アニメキャラはキャラだけである。敢えて「声が」とは言わない。ただ、こう考えるなら、実際は、俳優は個人<役<台本という三重に合わせるものであり、アニメキャラはキャラ(<声)<台本という二重に合わせるものだと仮に考えてみると分かり易いかもしれない。不等号は最終的に台本に個人やキャラ、声、役が合わせるということを意味する。つまり、アニメ自体が芝居=演劇だということである。

 

「ドラマは芝居=演劇だ」というのは当たり前と思うだろうが、アニメはそういう仮想世界が本当にあると思いがちじゃないだろうか。アニメも台本ありきの「芝居=演劇だ」と考えて、そういう印象が強く残る作品があるなぁ、ということだと思う。

 

私がそう感じる感覚がどういうものかという例え話についての説明なのだが。

 

RPG的な作りというか。北の森に行って、洞窟に行って、4つの宝珠を探しに行って、伝説の武器を取りに行って、その間に四天王を倒し、封印を解いて、ラスダンに潜り、ラスボスを蹴散らす、みたいな。

 

大人になってアニメやゲームを楽しめなくなるのは何故か。展開が読めるようになるからだと思う。毎回、外見を変えているだけで中身は同じことやってるよね、と思うと白けるんだろう、と。自分が同じことを繰り返しているだけなのに気づいて、なんでこんなことしてるんだろう…と思う。様式美とか言うけど、次第に繰り返されることに食傷してくる感も。

 

あるいは、アニメや漫画で語られるレベルの話が随分、哲学的に低いレベルなのかもしれない。アニメや漫画に哲学的なものを期待している人からすると、少年漫画レベルの大抵の話が『シンデレラ』みたいな、あまり蘊蓄を得無い童話と同列で詰まらなく感じるのかも。

 

そうした作品を楽しめるかどうかは、自分が人生のどの段階にいるかによって結構変わってくるのだろう。アニメや漫画に求めるレベルも高くなってくると当然、楽しめるレベルの作品は減る。楽しめる作品に出会える確率が減ると、そこで頑張って探そうとするより、別の楽しめる確率の高いジャンルの趣味に移動するのだろう。

 

立花隆は一時期、自分はノンフィクションしか読まない。ファンタジーは意味が無い、と書いていたと思うが。まぁ、実話の方が作り話よりリアリティのある話を引けることが多い=合理的、と思うのだろう。

 

ちょっと厨二病的だが(苦笑)私も良く分かる。ただ一つ例を出すと「モキュメンタリー」という語がある。「ドキュメンタリー」は事実を書こうとするが「モキュメンタリー」は嘘を事実らしく書こうとする。「虚構新聞」とか「鼻行類」みたいな話で。

 

「ドキュメンタリー」も「ザ・コーヴ」という反捕鯨映画に対して、「ビハインド・ザ・コーヴ」という映画が作られたそうだが、結局「事実の一面を主観的に映しただけに過ぎない文章や映像をまとめたもの」なので、ものによってはファンタジーと変わらないようなものも多くあるはずだ。「ノンフィクション」も同じである。大抵のものは事実の一面しか語れず公平な視点にはならないだろう。その視点でかくかくしかじかの(自分から見た)事実から「だから(事実)こう言えるだろう」という感想を言った瞬間、それはファンタジーと同じ主観的な物語に他ならなくなってしまう。そして、大抵のドキュメンタリーやノンフィクションは著者の感想を言うための「事実まとめ」だったりする。

 

超心理学スピリチュアリズムを信じる人が「ノンフィクション」を書けば、ファンタジックになってしまうだろう。あくまでも事実を羅列するだけの…という物語を書くのは非常に根気が要り辛い作業である。本気でそこまでしている人は本物の学者である。「ノンフィクション」好きの延長線上には「歴史好き」もいると思うが。

 

ノンフィクションやドキュメンタリーを好んで、ファンタジーに意味が無いという人は、逆にそれらを信じ過ぎている可能性が疑われる。母数集団について銘記されないトンデモ統計みたいな偏った事実を偏っていない事実として信じている可能性が出て来る。そして、偏っていない事実を探すのは一般的にとても困難である。

 

その辺を弁えると「ノンフィクションやドキュメンタリーだから」良いとは口に出せない(結局、自分で考えて正しさを見極めなければいけないから)と思う、と言う意味で、

 

そこが分かっていないために、厨二病的に「正しいから良いもので=それを選択する私は正しくて良いもの」と思ってたりするんじゃないかと思うという話である。

 

ファンタジー(作り話)には「思考の実験場」という意味もある。哲学者や思想家はよく作り話をでっちあげるが、それは実験的な意味合いがある。人がどういう状況にどういう感想や感情、行動を返すのか、または何が適切か、という興味から書かれる場合がある。

 

童話は伝承や道徳律を教えたりするが、事実だけではなく、どうあるべきか、についても語るのだ、というのが重要な点であろう。SFはユートピア小説、ディストピア小説…というのがあるが、それは思考実験による試行錯誤であり討論でもある。社会を風刺し、このようなことで良いのだろうか?と投げかけ、あるいは、こんな未来になるかも?と予想する。それはノンフィクションだけで描けない部分であり、ノンフィクションには無い意味を持つ、ということでもある。

 

命題「ノンフィクションはフィクションより優れている」(だからフィクションは要らない)というのは、ノンフィクションとフィクションを同列に語り一定の値の大小を競り合うものだろうが、そもそも測られる価値が異なるのだ、ということである。

 

ただ『うたわれるもの』はリアルじゃない(笑)いまさっき、ノンフィクションは…と言ってたよね、と思われるかもしれないが。

 

まぁ、私はファンタジーにもリアリティを求めている。道理から外れるのは「思考実験」のミステイクであり、間違っているからである。疲れたので、説明する気力が最早無い(笑)SFに科学的妥当性を求めるのと同じ感じである。

 

別にサイヤ人になっても卍解しても構わないのだが、心理描写がリアルでは無いもの突拍子も無いもの、ある種のリアリティが欠けた物語は私の好みから外れる。

 

私は所謂、何も考えないで楽しめる「癒しアニメ」を心理描写がオカシイからという理由で楽しめない人である。そこにはスルー技術を要することがあるのだと思っている。私が悪いわけでは無い(ぁ

 

私は悪くない!

 

うたわれるもの』も実際のところ、私はイラっとする場面、鼻につく場面がちらほらあり、それは前作を見ていた時には、すんなり楽しめていたことだろう、と回顧する。結局、加齢に伴う、あるいは思考の変化に伴う問題があるんじゃないかと思うのである。

 

うたわれるもの』なんかは、私が10歳若ければ、全く問題なく楽しめただろう。『オルフェンズ』も然り。私が注文が多く、小煩くなったのである。ただ、それは悪いことばかりでは無い。少なからず批評的になり昔のように没入的に楽しめない経験が増えたことは残念だが、それは単に少し…恐らく作品にツッコめる程度に賢くなった結果でもあるからだ。

 

例えば、ポケモンの新作をやってみたのだが、昔のようには楽しめなかった。あの頃のハマり具合を考えると、信じられないくらいだが…結局、そういう不可逆的な変化だと思う。

 

一つ、忠告を書くとするなら、何にせよ、趣味というものは強引にしがみ付くようなものではない。ある種のオタクはアイデンティティを守るかのように「好き」にしがみ付いているように見える人がいる。恐らく、永遠に同じように好きでいられるということこそ稀なのだ。熱狂を演じているのだとするなら、それは疲れてしまうからやめた方が良い。趣味で自分を精神的に削り取る意味があるだろうか。

 

それよりは瞑想してた方が身体に良い。