LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

収納のコツ

発達障害の私にとって収納は見えることが大事だと思う。但し、乱雑であるべきではない。ワーキング・メモリ(以下、WM)の話を以前書いたが、部屋が散らかっているとWMを消耗する。

 

気を散らせるものが周りに無い方が少なくともリラックスできる。本当はリラックススペースからPCもスマホも追放(島流し)した方が楽になれるはずだ。

 

WMの話題で触れた本の著者のトレーシー氏は「一つの場所で何でもしてしまいたい」と以前書いていたが私は反対である。

 

以前、人は私と他人だけでなく場所ごと用途ごとでさえペルソナ(思考回路)を使い分けていると私は書いたが、掃除・洗濯・料理・趣味・勉強・風呂・睡眠・WC・仕事等、場所を分けることで気持ちを切り替えて応じているので、空間を分けることには意義があると思っている。

 

意識の切り替えを分かり易くする、ということが何かに集中するために大切なのだと思う。それは意識の切り替えを無意識的に招くか、あるいは容易にするだろう。

 

私たちは、何かをするために、どこでも良いというわけでは無い。ちなみに、やろうとすれば物理的にはどこでも可能であるということとどこでも良いということとは違うのである。

 

ストレスが掛かるし、混乱する。そこでその時何をすべきなのか、分別を付ける意志力を強く要求するだろう。それは生活のハードルを高くしてしまう、と思う。

 

簡単にいえば、寝室(ベッド)にはスマホを持ち込まないとか。トレーシー氏も睡眠前はPCやスマホを見ないとか、週末は携帯の電源をOFFにするとか言っていたような気がする。

 

要は、その手の場所に応じた切り替えのルール設定が在ると無いとでは、人の意志決定の容易さも変わってくる。つまり、その場に応じた振る舞いがし易くなるか否かが変わってくる。

 

寝室(ベッド)にスマホを持ち込むとどうなるか…遅くまでスマホを弄っていて眠れない、なんてことになる。寝室(ベッド)には寝るため以外の何かを持ち込まない方が良いと私は思っている。

 

簡単にいえば、教室にPS4があったら、気もそぞろになり、勉強に集中できないだろう。つまり、場所ごとのTPOに応じたモノを配置する必要がある。

 

風呂には風呂に、キッチンにはキッチンに、リビングにはリビングに個室なら個室に応じたもの(だけ)を置くと、その場に求める振る舞いに集中しやすくなるだろう。

 

詩人であり彫刻家であった高村光太郎は仕事道具を一々きちんと片づける習慣を自分に課していたが、それは生活にメリハリを付けて、思考の切り替えを行うための役割もあったのでは無いだろうか。

 

思い出すのは、彼が親が節目節目の行事をすることで季節や節目の感覚ができたことに感謝していたことだ。正月だとか節分だとかそういう行事である。そういう行事が日々にメリハリを付けて年月や季節にハッキリと折目を付けて、自分に時の経つ変化の自覚を与えてくれるのである。

 

まぁ、脱線しているが…。

 

要は、一々、出したりしまったりするのは面倒なので、部屋を区切って移動した方が楽だよね?ということだと思う。例えば、和風の生活だと押し入れに布団をしまい、寝る時には出して、という形で一室で寝室と居間を兼用するわけだが。

 

まぁ、正直、面倒なのだ。それよりは寝室としてベッドを常に置いて置く方が苦労が無い。布団だとイメージ的に万年床だがベッドなら一々、畳んだりしなくても良い。寧ろ、ベッドを一々畳むとしたら、それは日本的風習が混じっているのだと思う。

 

その、面倒だ、という気持ちこそが日常生活で深刻な影響を与えるのである。特に私生活においては忍耐しなくてもいいのではないか、という気持ちは強くなるし、面倒に耐えようという気持ちも弱くなる。

 

だから、猶更、外的要因が行動の変更を容易にしてくれるようなものであると良いのである。

 

したがって、ものは場所ごとにTPOに分けて整理して置く。例えば食器用洗剤は寝室じゃなくてキッチンシンクに置くべきだろう。

 

まぁ、用途ごとにまとめて置いて置く、というのは基本的な話だろう。私としては、それより主張したいのは、ものを隠すのではなく、見える状態で収納した方が良い、ということだ。そして、手に届きやすい場所に置くべきだ。

 

勿論、気が散らないようにしなければならないが(´・ω・`;)見える収納と言っても、調味料容器で3Dピラミッドを建設するような目立つことはしない方が良いだろう。

 

収納で日用品が組体操のようなアクロバットを競い合う必要は無い。

 

あくまでもそれらはささやかに存在をアピールすべきである。私的には露出させるよりガラス(透明)戸で仕切られているような収納の仕方が良いと思う。その一枚のガラスが境界線となって選択させ難くしてくれる。在るのは分かるが食指を伸ばしにくいということは、目的に集中しやすくさせてくれるだろう。

 

買い物でガラス越しの商品には心理的にも手を伸ばしにくいのが想像して貰えるだろうか。あれと同じである。問題は見せる収納をしつつWMの負担は下げなければならない、ということである。

 

これは矛盾している。ただ露出しているよりはガラス戸という一線がある方が心理的に存在を無視しやすいと思えるのだ。

 

棚にラベルを貼るのは遠くの次善の方法で一目で入っていることが分かる方が良い。結局、ラベルを一々読むのもしまった場所を思い出すのも似たようなものだからだ。

 

例えば、コショウを探すとき、ラベルだと「調味料」と書かれている。コショウを探すには、

 

ラベル「調味料」→開ける→コショウ→手に取る

 

透明な扉があると

 

コショウ→開ける→手に取る

 

となる。WM的には、

 

1)コショウは調味料だから調味料棚にコショウはあるはず

 

となるし、

 

2)コショウあそこ(あの辺)だ

 

となる。WMの負担は随分違う気がする。調理中はレシピの順番についてWMを割きたいので、ものがどこにあるのか、と一々悩みたくは無い。実際、そのようなことでやり易さは随分変わってくるだろう。

 

一方、隠す収納ならWMを余計に働かせざるを得ないので、WMを鍛えられるだろう。私が発達障害だからWMが弱く、なるべく一つの問題に集中するべく他の負担は減らしたいのであって、障害が無い人なら隠す収納でも問題は無いかもしれない。

 

私は見えないものは計算に入らなかったりするので、例えば、シンク下の扉を開けると賞味期限切れの食べ物がゴロゴロ出てきたりする。それも想像力が無いってことなんだろうなぁと思うのだが…。

 

なるべく分かり易く可視化するということを実現する収納に出来れば日々のストレスも減り、生活にも少しは活力が湧くだろう。

 

PCもそうだがクローゼットにものをぶち込むのは良いのだが、閲覧性に欠けるので、しまった限り…ということになりかねない。そういう収納は使うことを想定しているとは言えない。

 

使うことの想定されていない収納は収納したモノの価値を発揮できないようにさせてしまうということにもなるのだと解さねばなるまい。このブログの過去の記事のように…(´・ω・`;)

 

最近、部屋の掃除をしているのだが、遺跡の発掘みたいになってしまって敵わない。多くの古くなっていらなくなったものが発掘される。本当は化石化する前に分別すべきだったのだが…。

 

この部屋の私物の重量は半減されなくてはならない。本当はそうなる前にこまめに捨てていかれるべきだったのだが…。捨てることも容易ではない。まず捨て方が分からないからだ。

 

ごみ箱に入らない、という問題から(´・ω・`;)まぁ、次の更新にでも書くとしよう。