LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

意識はあるが意志(身体)は自由ではない

意識というのは私が起こっているという感覚だったり、私が存在しているという感覚だったりするもののことだ。簡単にいえば、寝て目覚めた時のONになったという感覚である。

 

意識があると表現されるものの意識である。とはこの意識自体である。私=意識だ。私からすれば。客観的に個人について考えるならば意識の在る無しは問わない。ただ脳の機能を十分にするために逆説的に私が必要なのである。

 

意識自体には人格は無い。仮に意識がすり替わったとしても(そんなことは可能ではないが)他人は誰も気づくことはできない。よくあるお話では人格ごとすり替わるのが普通なので気づく訳だが。私という意識と脳機能は不可分であろう。

 

哲学的ゾンビという思考実験があるが、私以外の人間が意識を持たないプログラムだけで生きる人間だったとして、そこに何か問題を見つけるだろうか。所謂、人工知能が至るレベルとはそういうところなんじゃないかと思うのだが。

 

意識がOSであることを認識している者だとして、アトムはOS自体を認識できるだろうか。恐らく、できるだろう。身体が私に必要なのでは無く、私が身体にとって必要なシステムだから私が居るのである。

 

私は思うのだが、意識から外は身体である、と。意識の外側には意志がある。意志というのは、思考である。意識というのは無意識というべきかもしれないし、言語化されていない思考というべきなのかもしれないが。

 

待機状態にあるパソコンとか、命令待ちの犬みたいな感じだろうか。意識があるけど意志は茫然としているというのは操作していないのでスクリーンセーバー状態になっているような感じである。

 

まぁ、厳密に言えば意識も身体である、と言えるだろう。脳という臓器が働くための存在であるところの私である。私とは身体のためのシステムに過ぎない。意識こそ身体の最たるものである。

 

結局、スイッチを入れた時の灯りみたいなもので、スイッチが切れれば意識は失われる。灯りが消えるようなものだ。それは身体が意識に対して主導権を握っているということである。意識に対する身体は人間に対する世界のように下位存在ということにされがちだが、実際には意識⊂身体という風に包含される関係である。

 

魂がどうのという話は民間信仰的なファンタジーに過ぎない。意識が脳機能の必然である以上、あらゆる生物に魂がある可能性を予期せざるを得ない。少なくとも犬・猫レベルには意識があるだろう。つまり、彼らには私という認識があるだろう。

 

「我思う故に我あり」と言ったって、意識=無意識=私であるので、「我思う」に関して、言語化する能力は必要では無い。意識が生じているなら、すなわち私という自律統括システムが働かされるので、私がいるのだ、と想像できる。

 

意識が何のためにあるのか、と言うと、意志を上手く働かせるためにあるのかもしれない。論理や感情を観測して意志を確認し命令を下す客観的なシステムである。私というのは言わば中央情報統括センターみたいな感じだろう。

 

感情や論理や思考や意志というものを一旦受け止めて統合して処理する場所が私であって、だから前者の者たちには最終的な決定権は無い。よって、意志自体は不自由である。私(あるいは無意識)が最終的な決定権を握っているからである。

 

攻殻機動隊のように電脳化すること。脳と身体を切り離すということをしようとする。ただ、そこが限界である。脳という臓器の必要性から生まれる存在が私である以上、脳を捨てれば私も捨てられる。

 

人間の脳の限界が私の限界である。だから、脳を害された時点で私も影響を被るのである。認知症や脳の外傷はきっと私という存在(システム)を脅かすだろう。

 

私や魂という概念が強固な信仰であることが、こうした障害に強い抵抗感を抱かせる大きな一因だろう。

 

「私(意識)は脳機能の一部に過ぎない」ということには抵抗があるが、そのシュールな認識は科学的には正しいんじゃないかと思う。

 

そうした影響で「私が私で無くなってしまうこと」は、冷静に考えれば、他の臓器への侵食と変わりない程度の話である。他の臓器も致命的なことがしばしばあるが、脳もしばしば致命的なだけである。

 

けれど、他の臓器より脳への影響の方が格段に深刻であるような気がする。特に「私」がどうなるのか、という恐怖や不安が色濃い。そこには「魂が穢れてはいけないもの」みたいな信仰がある気がする。

 

オンリーワンであるはずの自明であるはずの私が病気や障害でそうでは無いという事実を叩き付けられることに対する信仰の危機的状況に陥る。不変だと感じていた「私が私である」というアイデンティティに亀裂を入れられてしまう。

 

ただ、私としては、現実を上手く説明できない信仰の方が問題なのだと思う。魂原理主義とでも呼ぼうか。この考えを捨てきれないのは、ヒューマニズムと固く結びついているから、なような気もする。魂=至上という風にして、人間の命を代替の利かない貴いものとして守ってくれている価値観でもある。

 

逆に「犬・猫の命は(人間より)大切じゃない」など、他に人種差別的な問題とも結びつく。この宗教を信じない者は人間じゃない、等。至上という価値観は排他に繋がるという側面がある。

 

日本では有名なアニミズムがあるわけだが。ただ、何れにせよ、至上という価値観からは下りないと個人としては「私」の存在が重くなり過ぎる。

 

自由の問題とも絡んでくるが「私」が至上であるから自由でいられるべきなのだ、と考えるとするなら、その信仰のために現実問題で摩擦と葛藤を強いられ苦悩しているとするなら?

 

「私」を至上にしておくために宗教戦争までをも行わねばならないのだとすれば至上の「私という魂」は重すぎるのである。

 

「私(意識)は脳機能の一部に過ぎない」ということには抵抗があるが、そのシュールな認識は科学的には正しいんじゃないかと思う。 

 

と書いたが、このシュールな認識はあまりにも軽々しいのかもしれないが「軽く」しても良いと思っている。「私」がプライドの問題に関係するなら、それを軽減することは必要かもしれない。

 

・人生が幸せで無ければならない

・人生で成功しなければならない

・人生が上手くいかなければならない

・常に正しくあらねばならない

・「私」を大切にしなければならない

・他人と対等で無ければならない …etc

 

など「他人と同じでなければならない」と思うのは、他人と同じ「至上の魂」であることを見せねばならない、みたいな話である。オンリーワンの私であることを人生の中で証明しなければならない、みたいな。

 

そういうのが「重い」。「私(意識)」はありふれたもの特別では無いのだから。

 

では、人権や人道が私が「ありふれた存在であること」のためにどうでもよくなってしまうだろうか?

 

メディアは「皆がスペシャルなんだ」と言おうとする。

 

人間が守られるためにそのような特別な理由が必要だと言うのならば、それ自体がオカシイのだ、と私は断言する。人間に優生学を当て嵌めたいというのならそれはイケナイのだ。私や私たちは彼らが言うような特別なものでは無いのだから。

 

『終物語』(アニメ)で老倉さんが生きている時空というのは、自分が何か特別な枠に当て嵌まらなければ生きていてはいけないのだ、というような感じである。不幸か幸福かという枠に嵌らなければ生きていてはいけないのだ。その二元論は神学の議論のようなものであり無駄である。答えは出ないからだ。不幸だろうと幸福だろうと「それが何か?」という感じの話でしかない。

 

高村光太郎の詩の中にこういう一文がある。

 

要するにどうしたらよいか、という問いは、せっかく辿った道をはじめへと帰す

 

不幸と幸福の二元論を延々と巡る間というのは、私にはコレに見える。幸不幸はサイクルである。したがって、グルグル廻るだけの話だ。阿良々木くんは「幸せになっていいんだ」と言ったが私は格好悪い科白だなぁと思った。著者が本気で阿良々木くんにそう言わせたのならば人間のことを深く分かっていないのだろう。

 

幸せになろうと思って幸せになる人間はいないし、不幸になろうと思って不幸になる人間はいない。少なくとも私はそれらを人生の、行動の、目標にしたことはない。

 

幸せになりたい、と思うことはあるが、だからと言って、直接的な手段に出ることは無い。それよりは「あれがしたい」「これがしたい」とか「あれをしなければ」「これをしなければ」といって生きていくものだった。

 

不幸とか幸福はその過程における感想でしかない。形容なのだ。だから、不幸でいたい、とか、幸福になっていい、とかいう議論は何かに結びつくと思えないのである。それらの人々は狙って不幸になろうとか幸福になろうとか思って意図的に行動してきたものなのだろうか。

 

私なりに老倉さんの心理を想像してみると、不幸や幸福という議論の中に埋没して自分の殻の中に引きこもっていたいのである。行動した結果、不幸になったと考えるため、ならば行動しなければこれ以上傷つけられることはない、ということだろう。

 

発達障害者としては人と関わらなければ傷つくことは無い、と思って他人と関りを持たないようにしている。実際、関われば傷つくので、私が人間関係から撤退したことに関して「お前が幸福になろうとしていないだけじゃないか」というのは私と彼が同じじゃないことが分かっていない人間の科白である。

 

健常者は誰でも訓練しさえすれば人と関わって満足できると思っている。では認知症者がコミュニケーション能力に自信を失い人間関係から遠ざかっていってしまうことをどう考えるのか。訓練次第?自分次第?…残念ながら相手次第である。そして相手も相手を選ぶ権利がある。では、わざわざ認知症の自分を選ぶ理由があるだろうか。なぜ、私を選ぶのだろう。他にもっとマシな人間がいるというのに。

 

私はそう思うし、発達障害者と関わりたいとは思わない。負担が大きいからである。認知症者も認知症者と関わりたいとは思わないだろう。なぜ「関わりたいと思うはずだ」などと思うのか。

 

要するに、誰でもというのは、そうした劣った人間がいるということを想定していない酷い言葉である。「私たちはみんな」という時、それは「日本人は」と言っているみたいな感じに「私たち」は人間全てを包括しない限定的な集団の話である。

 

実際、老倉さんのような人たちは現実的には、不幸か幸福かではなく、今の温い不幸か、あるいは更に傷つくか、という選択であるのならば、その場に留まり続けることを選択するという人たちだろう。

 

世の中は大凡、人と関わることでしか幸福になれませんよ、と囁いてくる胡散臭い場所である。仮にそうだとしてもそこには「但し健常者であること」という条件を自分で追記しなければならない。

 

一般的な幸福の条件は一般的な人間にとっての幸福の条件であって全ての人間に対応できるわけでは無い。

 

そういう但し書きをしないから、騙されたコミュ症の屍の山が築かれるのである。人と関わることは人生を充実させると私もよく聞くし、少なからぬ経験上そうだろうと思うが、例えば、私にとってはそれ以上に負担が勝つのである。特に差別される人にとって人間関係の持続自体が困難であるということを無視した助言(アドバイス)である。

 

仮に本当にそれしか幸福になれる条件が無いのだとすれば、私は不幸で良い。なぜなら、その幸福への道が万人に開かれてはいないためである。その道を通って今以上の不幸に堕ちるよりは、今のままの不幸を享受して生きた方が幸せだろう。

 

なぜなら、その道を通っても私は幸福になれないのだから。何を言っているのかわからないって?私たちは必ずしも同じ手段で幸福になれるわけでは無いのだ、という話だろうか。

 

仮に人間が幸福になるために、その手段が唯一だと言うのなら、世の中には絶対に生まれながらに幸福にはなれない人間もいる、というだけの話である。そして、それが自分だった、という話である。

 

公務員になれば安泰というのと同程度にそれは一般論に過ぎない。公務員になっても苛められて自殺する人もいるし、能力が無くて辞めさせられる人もいる。私がそうならないとなぜ他人に言えるだろう。

 

「そんなことわからないじゃないか」と他人は言う。けれど、私には云十年生きてきた経験からその人よりは結果を推測することができる。その推測から言えば、その他人の言葉は所詮ステレオタイプであり、私の事情は一切考えない一般論でもある。

 

当然、私は一般的な平均的な人間では無いために、その定規はものを測る役に立たない。

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「他人と同じでなければならない」と思うのは、他人と同じ「至上の魂」であることを見せねばならない、みたいな話である。オンリーワンの私であることを人生の中で証明しなければならない、みたいな。

 

そういうのが「重い」。「私(意識)」はありふれたもの特別では無いのだから。

 

では、人権や人道が私が「ありふれた存在であること」のためにどうでもよくなってしまうだろうか?

 

メディアは「皆がスペシャルなんだ」と言おうとする。

 

人間が守られるためにそのような特別な理由が必要だと言うのならば、それ自体がオカシイのだ、と私は断言する。人間に優生学を当て嵌めたいというのならそれはイケナイのだ。私や私たちは彼らが言うような特別なものでは無いのだから。

 

一般というのは、特別という意味である

大多数の人たちというのは特別な人たちという意味である

普通の人というのは特別な人という意味である 

 

必ずしもマイノリティが特別なのではない。今の社会は一般人を一般であるというところの特別階級に仕立てあげようとしているのだろう。普通が幸せってことだよね、ということは普通=特別であるということである。魂至上主義の「至上の魂」が一般人にこそあるのだ、というような話なのかもしれない。

 

階級社会から表向きの平等社会へ移り、表向き差別は無いことになったが、単に平民が都合TOP階級(とされる)の社会になっただけである。単純な話、民主主義が多数決原理に基づくから多数派っぽいマジョリティが勢力的事情から身分的に偉いということになったのであり、そんなマジョリティが基準であり特別であり偉いのである。大抵のマジョリティに属する人たちはマジョリティだからそのことに文句を言わない。当たり前である。そしてマイノリティはマジョリティのふりをしなければならない。その結果、誰が本当にマジョリティでマイノリティなのか実はよく分からなくなってしまった。更にその結果、マイノリティがこれも普通だと言って、マイノリティ的な価値観を一般枠に押し込めてくる。そして、単に一般的という特別階級の範囲が広くなっているだけである。それは妥当なのかもしれないが本質的に差別的な眼鏡を掛けてものを見ていることに変わりはない。

 

そういう「至上」の価値観探しは結局、終わりが無いと思う。同じことを繰り返すだけだろう。私が「私」(=意識)は特別ではないとかありふれているというのは、寧ろ、発達障害ダウン症児も認知症も犬・猫もそういう自然な存在に過ぎないという話である。

 

自分は自分であり、それ以外にどう在らねばならないと言うのだろう。どう在れると言うのだろう。

 

一緒くたに「皆同じ」という言葉を使うのは危険だと思う。それが特別ではないとかありふれているということは、だから「皆同じ」と言いたいわけでは無い。そういうと都合よく一般や普通の言葉に繋げてしまうからである。全ての人間が異なる運命を持つことこそ当然。寧ろ「だから」違いがあることが当然なのだ

 

それはそれを特別(スペシャル)なもの、に繋げてしまおうとする時点で分解されてしまう「軽い」言葉だし、同じという言葉が集合を切り分けて特別(スペシャル)なものを作り出す。一般同じも誰かが集合に切り分けてラベルをくっつけた概念なのだと解するべきだろう。

 

分類は考えるために必要な作業だが、一般同じも恐らく大雑把な分類法なのだろう、と。顕微鏡で拡大していけば、もっと細かい分類を必要とするのかもしれないし、その複雑性の中こそ私たち一人一人が直面している当然の現実である。般化した喩え話は般化する対象と自分の立場が異なれば当然適用できない。なぜ私は大多数と違ってしまうのか、と言って、それが現実的に当然だから以上の解は無い。

 

例え話に自分の身を合わせるのではなく、あくまで参考にしてみて自分の役に立つかどうか自分で考えて決めていくことだ。私と言う存在は似ていても量産品ではないのだから自分で説明書を拵えなければならない。それが何者であってもそのようにして世界に適応していくのであり個別的で自律的な存在である。

 

例えば「一般人」や「普通」「健常者」という代物も一卵性双生児のようなものであり「≒」であり「=」では無い。それを「ソート」ボタンでまとめてしまえると思うから複雑性の問題に躓くのである。

 

仮に「一般人」や「健常者」であっても不幸な境遇であり得るのは、その人たちが「≒」であり「=」では無いからである。実際の環境と条件はより私と彼との差異を広げるだろう。

 

そして、それが当然である。他人と自分を比べるのはあくまでも帳尻を合わせるためではなく、生き方の参考にするためである。

 

・・

 

「私とは脳機能が断続的に生じさせている振動であり、意志とは私と世界の間に起こる反響(エコー)のようなものだ」