LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

自分だけが間違っている世界で

『竜の卵』とか『すばらしい新世界』なんかは「自分だけが間違っている世界」を描いてると思う。

 

私は『竜の卵』の世界は結構好きで、貧弱に生まれてきた個体でもそれを認めて、でできるであろう仕事を振ってやり生活させてやるのである。

 

発達障害者というのは「自分だけが間違っている世界」の住人である。他のマイノリティも同じ感想を抱く時があるようだが。

 

私は教室にいる時にこの感じを強く覚えた。他人といる時もそうだが。他人と自分の間に透明なスクリーンが挟まっているような感じで私はスクリーン越しに他の人々のやり取りを映画を見るように眺めている。

 

幼い頃の記憶がどれだけ確かなのか分からないが、随分幼い頃から、そうした感覚を持って生きてきたような気がする。

 

そして結局のところ、その透明な薄い皮膜を被ったままである。他人が他人同士でお喋りしているとき、そこに自分がいる時、随分と場違いな気がしている。

 

私は登場人物では無いのになぜこの場にいなければならないのだろう…と。どの場所の台本にも私の役は載っていないのに私は参加を強いられてきた。でも参加してみるとやはり「いてもいなくてもいい」というより「いなくていい」のだ、という感じである。

 

例えていうなら、犬同士の中に一匹だけタヌキがいるとか、猫がいるとかそういう場違いな感覚だろうか…。発達障害者としては自分を猫に喩えるのが分かり易い気がする。

 

その比喩で表現したいことは「自分だけが間違っている世界」というのは、居る場所を間違えているのであって、存在が間違っているわけではない。「犬のコミュニティに猫が一匹紛れこんでしまっている」というような間違いの感覚である。

 

学校にいた頃も私が感じてきた感覚はそのようなことで、だからこそ「なぜ私がここにいなければならないのだろう」と感じてきた。

 

それは犬達が間違っているのではなく私が間違っているのだが、誰も「何とかしてくれようとはしない」のであった。

 

人間の95%は犬だから、見回してみて同じ猫は居らず犬しかいないのであれば「私は間違ってここにいて」ここで「生きるのに向いていない」と思うんじゃなかろうか。

 

勿論、発達障害はそれ以外の能力的な生き難さも抱えていると思うのだが。コミュニケーション上の確かな異質さを私が感じていて、そのために他人と距離を置かねばならないということは能力的な数直線上の足りなさの問題というより、最早何か明確に離れて異なってしまっているように思える。

 

普通の人で言うなら、宗教の確固とした違いがそこにあって、生活を一緒にできない、というような感じがそこにある。

 

生まれながらに宗教が異なってしまっているので他人と同じ輪の中に入れようとしてくれても、それが苦痛になってしまうのだ…と思うのだ。

 

一般人を対象にした一般論なら「独りぼっちはダメ絶対」というのも頷けるが、上述したような問題を抱えていると寧ろ「混ぜるな危険」と主張するのが私としては正しいと思える。

 

そう考えると、どちらかといえば、発達障害者同士のコミュニティに入った方が無理に「同じ輪」にいれられる苦痛は少ないのかもしれない。ただ意味不明である可能性があり別の苦悩をもたらしそうだが…。

 

問題は「その輪」が「社会」であり「社会参加」というのが「その輪」に参加しなければならないということだ、ということだろう。

 

そのことを是として考えてしまう支援者が多すぎる。是とは「私にとって最善の結果だろう」と本当に思っているということである。ある意味ではそれは「みんなイスラム教になれば幸せになれる」というのと同じことを推奨しているのだ。ただ「世界のみんながそうだから正しい」という理由で。

 

その「みんな」とは9割程度の多数派の人々であり、私ではない「みんな」であるから、私に言われても困ることなのである。但し、その9割程度の人たちが社会を築いて運営しているのであり、社会は彼らのためのシステムになっている。

 

右利き社会と同じような「彼らによる彼らのための社会」という考えは人格的=脳タイプ的なものにも悉く当て嵌まる。要はそうした建築様式が私に合わせてくれていない=彼らの側には合わせている、という偏りの中にあるのだろう。

 

だからこそ、そういう意味でも多重に生き難くなっているのだ、と考えられる。「生きるのに向いていない」とは「そういう環境で」という前提を含んだ言い方であって「私はどんな環境でも生きられないのだ」ということでは無い。

 

社会環境自体が誰かに都合よく(その代わり別の誰かにとっては都合が悪く)作られているのかもしれない。都合が悪い人たちにとっては生き難いだろう。

 

身近な話をすれば、自転車を使う人達にとって日本は生き難いだろう。逆に車を使う人達にとっては生き易いかもしれない。じゃあ、何がどう違うのだろう。その違いこそ

 

社会環境自体が誰かに都合よく(その代わり別の誰かにとっては都合が悪く)作られているのかもしれない。都合が悪い人たちにとっては生き難いだろう。

 

という話である。それは私が「さらに」生き難くなっている理由の一つかもしれない。マイナンバーカードに点字表記が無かったような話であり「多数派にとっては便利な世の中」というだけで、「みんな」にとって便利になっているわけでは無いのだが「多数派=みんな」だと考えてしまいがちである。

 

つまり「みんな」と「私」のハンディキャップがそういうことの多層的な積み重ねによって開いていくわけである。

 

そして、それは現実生活の感覚の違いにも反映されるものだろう。社会全体が「右利き」だとしても私が「左利き」なら、そのことに自覚的で無ければ私が間違っているということに私の中でさえ…されてしまうだろう。