と教育委員会の誰かが言っていたという記事を読んだ。それに対して障害者のOさんが「私は生まれてこなければよかった?」とツイートしたとかしないとかいう記事。
この記事では「酷い」とか障害者に同情的なコメントが寄せられ、スレでは「正論なのに…」とレスされていた。
所謂、失言ということになるのだろうが、じゃあ失言も無い方が良いだろうか?他人が本当は何を考えているのか知る上で私は割と参考になるなぁ、と思ったりする。
障害者というと曖昧だがダウン症と言ったときには、もう少し辛辣なコメントが増えると予想する。「ダウン症の子を減らしたい」「ダウン症で生まれてこないようにできれば」と言っては問題になるだろうか。
私は自分がそのように生まれてきたくは無い。私としてはOさんのツイートには批判的だ。生まれ変わるとしたら私なら「発達障害にまた生まれてきたいか?」と言われたら御免である。Oさんは健常者よりまた身体障害者として生まれて来たいだろうか?
そういう話である。障害者否定ではなく比較の問題で、そういう問題は時には仕方無いかもしれないが無い方が良いよね、と。その部分が解されず「障害者差別ということになってしまう」ところに問題が感じられる。
性差があるのに無いということにして平等を騙ろうとするフェミニスト的な受け取り方というか…。
障害というのは2つに分けられる。医療的な問題と社会的な問題である。不平等だと叫んでいる人たちは専ら後者の側であり、減らしたいと思っている私は前者の側である。勿論、社会的な障害に遭って、そんなの嫌だ=減らしたい、と思う場合もある。
発達障害だと人間関係の障害は実のところ前者であると思うため、私はやはり減らしたいなと思うだろう。
それが後者の側の問題として見える人は問題の渦中にいる親か親縁者で「仲間外れにするな」と思っているのかもしれないが「仲間」じゃないので入れないのである。男女もやはりどうしても別々に「つるむ」ものだが、障害もやはり別々になってしまいがちなものだろうと思っている。無理に仲間に入れてもお互いに居心地の悪さの中に居なければならない、というようなことになりかねないし。
まぁ「障害者差別を無くす」=社会的な機会や居場所を作る、ことは大切で、減らすこととは別に考えられるべきだが。難病に掛かっても珍し過ぎて難病支援制度のようなものが無いとか。そういうこともやはり問題で「減るからそんなのどうでも良い」とも言えない。
まぁ、障害者じゃ無ければ、老人でも良いだろう。「老人をできるだけ減らしたいですよね」と。「老人ができるだけ減ればいいですよね」と。生じる反感は障害者と似たり寄ったりだろう。
これもやはり「必要以上の延命措置が必要だろうか」という減らす方向についても考えられる場合があるし、老人ホームや介護のように居場所について考える方向もある。
幾つかの異なるアプローチの考え方がある、とだけでも考えられると良いのかもしれない。
個人的にはここに「犯罪者」もいれたい。「減ると良いですよね」「差別が減ると良いですよね」と。オランダとアメリカを比較した話が出ていた。オランダでは犯罪者数が減ったという話であり、どうも軽犯罪者が社会復帰しやすいためではないか?という話であった。
劣位な差別的環境に置かれると、何度も刑務所との間を行ったり来たりする羽目になってしまいがちだ。知的障害者の話に見られるし、一部の老人の話にも見受けられる。
一般社会で生きるより刑務所の世話になった方が生き易いという状況が生じれば一部のそうせざるを得ない人たちはそのように振舞ってしまうだろう。
刑務所が楽なのではなく、一般社会で生きることが厳しいのである。そして再犯を冒す。それは支援の網から零れた人たちがそうするのである。
簡単にいうと、自然界で野垂れ死ぬような自分の世話も見れない人間は一般社会で自立(自分の面倒を自分で見て)して生きることもできないから指示を与え世話をしてくれる刑務所のような場所を必要とする。
自由という概念は、そこに責任が伴うというが、その責任というのは「自分の面倒は自分で見られる」というものである。ところが、その責任を負えない人たちがおり、じゃあ、その人たちはどうするのか?という時に彼らが一般社会で受刑するのが「自由という刑」であろう。
私的には、それについて十分に語られているとは思えない。その結果、自由に責任を負えない人たちがいる場所は十分に整備されていない無法地帯であるのかもしれない。
犯罪など逸脱していってしまうのは、彼らがそうせざるを得ない状況に置かれたからである。例えば性犯罪者が「自分の性欲をコントロールできる自信が無い」と言っていたりするが、ならばコントロールできる第三者が必要だろう。ただ、それをどうするのか、どういう議論がなされているのか、ということを私はよく知らないのだが。
その辺が有耶無耶で、人というのは、この有耶無耶な部分に入り込んだ時に自分ではどうしようもなくなってしまうことがあるのだろうなと思ったりする。