LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

犬猫も心の病気があるという認識

この問題を今一つ意識していないな、と思う。

 

人間の精神障害・心の問題は周知されてきたけれど、動物の精神障害・心の問題はあまり聞かない。聞いても認知症・癲癇くらいか。調べればダウン症鬱病という辺りは見聞きする。

 

だから発達障害的なものもあるだろうし、易怒性なんかの問題もあるだろう。そうしたペットの個々の生まれつき持った問題を評価せずに何でも「飼い主が悪い」という風潮は見直されるべきだろう。

 

発達障害も政治家が学習会を通して「親の育て方のせい」とされたことがあったが、ペットに関してもその手の根拠のない決め付けが同様に行われるのだろう。そういう現象は問題の原因を何でも良いから指摘しないと気が済まないような心理によって引き起こされるのかもしれない…。という心理によってこの文章を私は書いてるのかもしれない…(´・ω・`)

 

無論、環境の問題はあるが、人間の子育てと同じで殊更に育て難い個体が存在すると考えることは自然であろう。発達障害児に対する子育ては通常の子供より難易度が高く挫折感を味わいやすいと言われる。これに伴い親は「あなたが悪かったわけではない」と(心理士に)慰められるわけである。

 

例えばの話、生まれながらにして150のストレスに耐えられる人と100のストレスに耐えられる人とがいるようだ。150のストレスに耐えられる人は苛烈な環境でもまともに育つが100のストレスまでしか耐えられない人は精神に障害を負ったりしてしまうという話である。

 

そうした強弱の差異を含めて人間という種が差別なく受け入れられることが現代社会の理想である。そして愛玩動物に対してもその「誰でも」は適用されるだろう。

 

けれど、その気高い精神は飼養することになるであろう人にとっては難易度がeasyでもhardでも須らく受け入れなければならないという桎梏をもたらすことを意味する。

 

概略だが、こういう世界の中で私たちは生きていると考えるのが妥当だろう。自分と異なる人間を差別してはいけない。教条である。専らの国際的な教え(宗教)である。そして、それが難しいと思うのは特に自分より劣った、あるいは受け入れられないような反発した価値観を持つ人間を目の当たりにした時である。

 

まぁ、そしてこの話題では、飼養することになる愛玩動物がそのようであるかもしれない、ということである。あるいは育てることになる自身の子供だろうか。「育てる人間が悪い」というのに加えて他の要因であった可能性も付け加えられるべきだ、という話である。

 

それでどうなるという訳でも無いのだが。

 

犬だと思ったら狼だったとかタヌキだった…。キツネだった。クマだった。そういうことで飼い切れなくなることがあるかもしれない。犬に関して言えば、特に飼育の難しい犬種が問題を起こすことも多い。これを平均的な飼い主が飼った場合、飼えたり飼えなかったりするかもしれない、ということである。

 

能力50の飼い主に35で飼えるトイ・プードルを飼わせるか、60で飼える紀州犬を飼わせるか。プードルは飼えても紀州犬は荷が勝ちすぎる。とまぁ、簡単にいえばこういう話なのかもしれないという話である。

 

勿論、能力70の飼い主ならいずれでも飼うことができる。まぁ、仮にこれを偏差値だとして想像して欲しい。紀州犬を飼う能力がある人がどれだけいるだろうか…。そう考えると割と飼い切れたり飼い切れなかったりという問題がリアルに見えるんじゃ無いだろうか。

 

勿論、偏差値はものの例えに過ぎない。ただ、人間は偏差値的な存在であり能力はバラけて存在しているという意味では分かり易い例えだろう。

 

寝たきりの知的障害者から狂気的な天才までの知能の数直線があり、真ん中に行くほど人数は多くなる。人数は山を描いているから、端に行くほどマイノリティということである。

 

それでも私は私を真ん中にいるに違いないし時には隣の人もそうであるはずだと信じている。例えば「私が結婚できないのはおかしい」という時、みんな〇〇なのにオカシイというが、その時、私は私を真ん中にいるに違いないと思っているのである。

 

けれど、事実はそうではない。

 

問題は人間である以上「私がその数直線上のどこにでもい(存在し)得る」ということである。あなたは自分がマジョリティだと思っていても実はマイノリティなのかもしれない。そして、誰も大抵、あなたが具体的にどこにいるのかハッキリと教えてはくれない。

 

私はとってもマイノリティな人間だが周りは「あなたってとってもマイノリティなのね」とは言ってくれない。それはあるいは差別で許されないことだからなのかもしれない。そして、そのために私はみんなと同じレールで競争して走らねばならないと言われかねないだろう。

 

そういう苦しみをどれだけ理解して貰えるのだろうか。それは差別しないことによって正にハンディキャップが付くということである。アファーマティブアクションを行わないことが差別しないことなのだという訳だ。

 

けれど、私は「差別することによってしか差別は無くならない」と思う。まぁ「差別するな」なんて言葉は言葉をこね回して混乱するだけの話だ。実際には「差別して正しいハンディキャップを付けなければ人間の自然に生じ得る当然の格差の差異をいつまで経っても均すことができない」のである。

 

その辺の建前と本音の矛盾した構造の中で生きているということに気付かなければ、まともにものも考えられないような気がする。国際社会が「差別はいけない」と言っているのだから「差別はいけないのだろう」と考えるようでは「積極的に分別していかなければならない」というような恐らくは実践的な生き方からは遠ざかるのだから…。

 

「差別はいけない」と言って「区別しちゃいけない」と思って区別することを理性的に拒否するような考えの正直者は愚か者である。そして、発達障害者的な思考というのは大抵、正直なものであり、私は自分の愚かさより世の中の「建前と本音」的な理解されているようで理解されておらず、共有されているようで共有されていない曖昧な不文律に憤りを感じる。

 

それは私のような「単純な正直者」を錯綜したモラルに誘導するからである。馬鹿ほど愚かなのは世の中が愚行ほど賢いと吹聴する結果だという気がする。

 

不正を「したたか」だと言って推奨する大人が私の周りには数えられるくらいには居たが、その結果、断罪された人もいた。但し、彼らに共有する文句は「ばれなければいい」であり、大抵の人は「ばれずに上手くやる」のである。そういう行動が「賢い」という感じに誘導されるような社会からの影響が正直者を愚者に教育しているのだと思える。

 

賢く生きたいと思う正直者はアンヴィバレンスな現実の中では賢く生きようとするために愚かになるだろうと推察される。世の中の「賢さ」の意味は実際には「愚かさ」だからである。辞書が間違っていれば賢いという意味を提示しているつもりで他所から見れば「私は愚かです」と言っているかもしれない。

 

建築の杭の不正などは、こうした「したたかさ」の結果だろうと思う。「ばれなければいい」し「みんなやってる」のであり、それをしないのは馬鹿だからだ。私が言いたいのは、そういう形での悪がきっと蔓延しているんだろうな…ということである。

 

そして、それは人災である。要するに防ごうとすれば防げるのに防ぐ気が無いのである。=それを防げないというのだ。国際社会を見ていても分かるが「防げるのに防ぐ気が無いので防げない」という形が割と何でもメジャーだと思う。

 

重要なのは、それが人災である、ということで、実際には人為的に防げる問題だろう、ということで、現実的に手が出せない事実自体ではない。例えば、それは現状どうなるものでも無かったとしても、物理法則等の世の中の真理では無いという話である。

 

割合、悪人を作り出しているのは我々自身ではないのか?という話であり、それは悪人自身は生まれながらにしては悪人ではないのではないか、という話である。そして、彼らを愚者に仕立て上げる社会こそが主犯である。

 

まぁ、だからといってどうなるものでも無いが。大抵の場合、そうなってしまったら救いようは無いのだし。憐れむくらいしかやることはない。まぁ、初めから救いようが無いのと、初めの内は救いようがあるのとでは後者の方が随分マシだろうという話である。

 

更生を考える場合、とても問題は難しいがゼロスタートの場合問題は易しいことが多い。但し、大抵、私が更生するには?という話なので、そんなの「神に祈れ」という救いが無い話になるわけである。じゃあ、ある時点では救いようがあっただろうか、と考えると割合、救いようがあったかもね、という話は多いという感じである。

 

零れたミルクについて考えても無駄である

 

という諺があるが、まぁ、結果論であるということが多い。けれど、じゃあ、次に生かすにはどうしたらいいか、と考えることは有益であることが多い。私自身についても結果論だが…と考えることは無駄かもしれないし無駄ではないのかもしれない。

 

まぁ、「失敗学」みたいな話で結局、次に生かすことが最も合理的だというケースは多いだろう。どうしようもないことに関しては考えても無駄だと言っても、じゃあそこから学び取れることは無いのか、ということは考えても無駄では無いのかもしれない。

 

例えば私自身に関しては既に零れたミルクに過ぎないのだとしても、他人が零れないように何か益になることはあるかもしれない。独我論的に言ってそういうのは無意味だろうか??

 

私でなければ意味が無いのだ、という主張も理解できるが、但し、私自身については取り返しが付かないと既に結論が出ている場合に…という話だろう。それが私にとっては次善と言い得る何かなのかさえ定かではないのだが…。

 

検体とか想像したけれど、そんな感じだなぁ…。やっぱり意味無いよねと利己的に考える人が多いんじゃなかろうか。火葬料金が掛からないからみたいなのも結局、利己的だろうし。やはり私で無ければ意味が無いのだ、という考えは強いだろう。

 

なんだか結論としてどこに向かおうとしてるのか分からなくなってきたので止めときます( ..)φメモメモ