同性愛者を異常扱いして非難された議員の話。
私は仕方ないかな、と思う。この議員がそんなに悪いとは思わなかった。無関心である、などと正直な弁解をする人だな、と思った。
私は若者の範疇だが、私の世代は「ホモ」や「ゲイ」をネタにして遊び笑ってきた。丁度、同性愛が「笑われるようなことじゃないのだ」という風潮を帯びてきたのは割合最近の出来事である。
だから、私より年上の「おじさん」の世代が「同性愛」に対して感じるイメージなんてものは推して知るべしだ。歳を取ると、若者ほど考えが柔軟では無くなる。今の時代の流行に付いていくのは人によっては難しくなるのである。そして、歳を取るほどに、そういう傾向は増すだろう。
「同性愛者」に対する人権思想的な擁護は特に最近のものであり、20年前は今ほど苛烈では無かった。「同性愛者」を守ろうとする世論?は私から見ればそれ自体が異常である。
要するに「過保護」みたいなものである。フェミニスト運動とか障害者運動のように一世を風靡するマイノリティの社会運動化しているのかもしれない。私から見ると「同性愛」に難色を見せるとすぐに炎上するのは、自分が正義の側にたって無双したいという人間が多いんじゃないか、という気がする。
それは最早「同性愛」の問題じゃ無いのである。そこに乗じている殆どの人は攻撃された議員と同様に「同性愛」自体には無関心であり、ただ正義の側に乗ることが重要になっているのではないか。そして、その人自体が義は我にありと言いたいだけなのだ。正しいことをしているという感覚によって得られるエネルギーを得たいというだけの寄生虫である。
同性愛に限らず、同様のことは難民の問題でも観察できた。あるいは震災のボランティアで。支援物資として送られてきた中古の要らなくなった服・靴。
まぁ、キリスト教的なボランティア思想にも、この点は見られるが「可哀想な人への施し」である。そのことで功徳を積む。基本的に満足するのは自分である。逆にいえば、自分に利益が無ければやらない。
だから、自分が要らないものを他人に贈ってしまうのでは無いか。私はそこに酷い薄情さを感じてしまう。
同性愛者やマイノリティが「可哀想な人」だと思って「施しをしている人」は、そのことによって彼ら自身のスタンスを表明している。その上で彼らが同性愛者を「異常では無い」「我々と同じだ」と言ったとして、このダブルスタンダードの真実はどちらにあるのだろう。
ちなみに私は同性愛者を受け入れる必要なんて無いと思う。その感覚が受け入れられないのは異性愛者なんだから当然である、という意味において。「エラーだ」という者がいたが、進化の過程における必然の遺伝子の揺らぎ(不安定さの結果)だとも考えられる。
同性愛者が遺伝的に優れているという訳では無い。遺伝子が不安定だという話である。遺伝子はちょっとしたことで変化してしまうのだということが分かってきた。癌なんかは象徴的では無いだろうか。
別に同性愛者が癌細胞と同じと言っているわけではなく。生物の基本的なシステムとして「遺伝子の不安定さ」があり、それが環境に適応させていく進化的な能力とあるいは翻って脆弱性も作り上げるのだろう。
もし遺伝子が完璧なら何も進化してはいかないのかもしれない。多様性が発揮されるから取捨選択されて進化するのであり、進化というのは環境が許せば無軌道だろう。それが進化=単純に強くなる・優秀になると思いたいのは、宗教的にやはり完璧なものがあるのだ=そしてそれは人間であると思いたいだけである。
マイノリティにとっての問題は「最大多数の最大幸福」を求められた時、私は排除されるであろう、ということである。生まれながらに「そうして」生まれてきただけで。
この理想は多数派や権力者を幸せにするだろうが、少数派や力の無い人を幸せにすることは無いだろう。まぁ、だから勝ち組・負け組なんてことに必死になるのかもしれないが。
今、私たちを守ってくれている人権思想(ヒューマニズム)は根本的に私たちに対して無関心なのかもしれない。自分の権利を主張できるから・可哀想な人に対して優越感が持てるから・自分が正しいとアピールできるから・世界の流行に乗り遅れると負け組になりかねないから、という感じの本来の目的とはかけ離れた利己的な部分で便乗している人間が大多数のものなのかも知れない。
だから、この思想が私を守ってくれる素晴らしいものだと思っていると、態度の端々から本当は誰も私に興味関心なんて持っていなくてどうでもいいんだと思っているという本質が透けて見えたりしないだろうか。
多分、ほとんどの同性愛者もまた守ってくれるというから便乗しているだけに他ならず、問題そのものには無関心なのでは無いだろうか。