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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

弱い人々は目に入らない 

平均から下の能力の無い人々は死者と同じであり何かをするときの数勘定には入らない。

 

これは我々の想像力の制約からくる欠点だろう。マイナンバーカードが点字の対応を忘れていたという話があったが、基本的に私たちは自分の周りの(職場にいる)人間を基準にして物事の必要性をその範囲で良しと考える傾向がある。マイナンバーカードを拒否する人たちは恐らくネット上の流言に惑わされたのだろうが、そういう判断能力を持つ人達も私たちの社会には勿論いるわけである。

 

現実は偏差的である。その世界しか無いと何時も思いがちだが…。特に「常識的な人々」や「普通の人々」と「私の世界」とは別個に存在していると常々感じる。

 

義務教育やあるいは集団生活に馴染める人々と、その空間が異質なモノと感じられる私のような人間が存在する。私からすると慣れ合って居ることが当たり前だと疑問を感じることさえ許そうとしないかのようなそうした社会は異質である。

 

分かり易い例を挙げれば、日本人が伝統的な生活を送るイスラム教徒について異質と思うのと同じ感覚を私は集団生活や社会生活に何の疑問も持たずにこれを受け入れて送れる人々に抱いているのである。

 

私たち日本人は恐らく人類が皆イスラム教徒にとって代わることを脅威だと感じるが私からすれば私以外の殆どの人間が現にイスラム教徒であり私は信仰を理由に居場所が無い。

 

例えば人それぞれという理由でマイノリティである私は独りぼっちになる。それは自業自得であり、郷によっては郷に入らないためである。そして私が勝手にそうしているのだと言うだろう。

 

世界中がイスラム教徒になった場合、私はイスラム教徒にならねば「人それぞれ」という理由から排除され集団から除け者にされるという形で殺されるだろう。

 

つまり選択肢は無く「人それぞれ」ではなく合わせろさもなくば死ねと暗に言っていることになる。これは建前と本音である。私から見ると能力主義の資本主義社会は特に日本の社会は他人と価値観を共有できる能力=コミュニケーション能力があることが前提とされている。

 

それ自体が実のところ越えられない身分的なヒエラルキーを作っている。発達障害者を一つの人種とするならば人種隔離政策であると言える。他人と価値観を共有できないというそのことのために殆どというくらい多くの職場から締め出されてしまうだろう。

 

そして、このような人種の少なくない人々が底辺などとレッテルを貼られる。私から見るとこの社会は「健常者至上主義」であり「健常者」と「そうではない人」との間に隔絶した差別的な境界が存在する。

 

「健常者」でもそこから何かの要因で落ちてしまうと「底辺」の生活を強いられるということである。そして「底辺」だからそれは自業自得であり仕方ないのであると言われてしまう。またスケープゴートにされてサンドバックにされる。

 

そうした構造から目を逸らした世界で我々が夢を語ることの滑稽さを指摘しておきたい。この記事を書いたのは「人工知能が仕事を奪う(から創造的な仕事をしなければならない)」という記事を読んだからである。

 

私のような能なしの人間はそんなふうに逃げることを考えることもできないということである。少なくともそうした人々についてこの記事はそんな人間はいないかのように扱っている。私は寧ろ私のような人間がいるためにこの記事が述べるほどコンピュータに仕事が奪われるとは思わない。

 

少なくともこの先20年程度の短期の間には実際には柔軟な対応を必要とするサービス業の仕事がそう簡単に機械に取って代わられるとは思えないのである。この記事はまるで自分のような人間以外はいないから…こうなるだろう、と言っているように見えるのだ。世界に偏差なんて無く人間が全て画一化した存在ならばそうなのかもしれないが…。

 

発達障害でなくとも老人なら誰でも能力が衰える。その時に、この手の見解は的を外すだろう。少なくともみんながクリエイティブな柔軟性と知性を要求される仕事に付けるはずが無いのである。例えそのような職が無くなろうとも。

 

結局のところ、それで問題になるのは、仕事に付いていけない人たちが増えるという問題なんじゃないだろうか。寧ろ、じゃあ、どのように仕事を提供すれば私たちが快適に上手く働けるのか?という問題を提起したらどうなのだろう…。そういう記事を中々目にしないのだが。

 

もっと自分の限界を伸ばさねばならない。もっと違う能力を身に付けなければならない。もっと戦略的に生きなければならない。人間の可能性は無限なのだろうか?生きる上でのハードルをそのように上げ続ければ、付いて行かれなくなるのが当然である。

 

機械が何のためにあるのか、甚だ意味が不明である。果てにロボットの人権が云々と言い出す。機械は生活を便利にするために、労働を少なく済ませるためにあるのでは?機械と仕事を奪い合い競い合わなければならない?

 

私たちは合理的に考えているのかもしれないが焦点を当てるべき部分を間違ってるんじゃないだろうか…。何に対して合理的で効率的なのか。それは私たちにどのように利するのか。害するのか…。

 

生き物を殺すことは残酷だろうか。生き物を酷使することとどちらが残酷だろう。殺すことばかり残酷だと言われ、生かすことの残酷さについてあまり言及されない。

 

あっさりと死ぬことと生き地獄を生きるのとどちらが残酷だろう。一体何が許されて何が許されないのか。本当のこととは何のことだろう…。

 

人間が一番愚かなのは自分が正しいことを知っていると殆ど無意識に考えてしまうことだと思う。そのために過ちを犯すことが多い。知らないということを自覚しながら生きることが難しいと感じる。

 

多くの場合、自覚的であるように謙虚なフリをしても、その実、私は何も悪くないのだと開き直っているという具合である。非難を叩き付けたいのではない。(私自身の)どうしても謙虚になれない意気地の悪い性質が、実体の伴わないプライドが苦難だと述べているに過ぎない。

 

然もすれば、そのことが無知の上に胡坐を掻く態度になる。虚栄心を作り素直さを表明できなくさせるようだ。

 

私自身のこと、というが他人に関しても割と多くの人に共通する性質だと思う。思うに自尊心を守るための正常な反応なのでは無いだろうか。けれど「正常さ」は必ずしも状況に対して正しい反応を引き起こすわけでは無い。

 

この点は信仰の問題だろう。清く正しくという言葉や純粋という言葉が良いものという感じを受けるが人間の判断は清いから正しいわけでもないし純粋だから良いわけでも無いのである。もしも「そんなわけは…」と否定したいという心情が沸き起こるとすれば、そういう信仰を私が持っているということである。

 

自然の身体の運行が時に招かれざる事態を呼ぶことがある。私は素直に生きたいと考えがちな人間だが、そのために死にかけている可能性がある。感情もそうである。心もそうである。心のままに生きたいと漫画の登場人物は叫ぶだろうが、それが良いとか正しいとは限らないと忠告しておく。

 

米国の大統領候補が自由だから言って良いのだ、などと言っていたが、そんなに自由という問題は単純ではない。彼は頭で言葉尻に乗り理想的に考え過ぎである。

 

心の問題、意志の問題に関して忠告しておきたい。意識と呼ぶか、頭の中の言葉というべきだろうか。食べ物を見た時にあれを食べたいと思う。その意識あるいは意見に沿うことが自由であり正直な自分を偽らない生き方だろうか。

 

そう考えてしまう人がいるかもしれない。けれど、そうではない。そして、それは自由だとも言えない。感情を採択しただけで、結果を採択した訳ではないからである。それで太って自業自得と言われても、私にとっては不本意な結果であるかもしれない。

 

本当に自由ならカロリーや財布の都合も考えて賢い選択を取りたいと思うかもしれない。何が本意だろうか。結果がどうなれば良いのだろうか。何を得たいと思うか。

 

心の中で私は他人を侮辱し汚い言葉を使い女性を凌辱し親に唾を吐きかけるかもしれない(苦笑)汚言症というのがあるが、私たちの心の中では日常的に酷い言葉や想像も飛び交っているのだろう。自由にした結果として、選択的にそれらの言葉を使わないのである。

 

心の言葉も同様である。それは最終決定でもないし、最終的な意志という訳でも無い。そして自分自身というわけでもないのである。それらを選択する私は心の言葉が飛び交う外郭からそれを眺めて最終的に判断を下すのである。

 

それを無意識というべきなのかはよく分からないが…。頭の中にイメージを描くのと言葉を再生する(言葉を意識する)のは同じことだ。頭の中の空間に絵や音を再生し、眺める私は別にいる。

 

そういうイメージを持ちにくく、心の声が私と思うことが多いのではなかろうか。そうすると私の存在は私の語彙に随分制限されてしまうのではないだろうか。語彙の総量が想像力の限界が私の全てということになってしまう。

 

別に人間の無限の可能性云々という訳ではないが、そうなると「知っていること以外はない」という考えを持ちやすいのでは無いかと思う。語彙や想像の余地はただそれだけのことである。私自身からは切り離された問題なのかもしれない。例えば髪や爪のように…。私自身であり私からは切り離されている問題でもある。

 

知識や経験、意志や考えは髪や爪のようなものであり、それを利用する私とはまた異なった場所に在るのかもしれない。そうなると存在論的不安を感じるだろうか?私が何者かで無ければ私では無いと思うだろうか?

 

仮に記憶を失ったとしても私は私であろう。経験、記憶、アイデンティティ、意識し意志決定を行っているこの私はそれ自体とはまた恐らく切り離された問題だと思うのである。

 

 仮に責任能力というものがあったとして、この私こそが責任を持つ存在だろう。私をコントロールする中枢の役割である。私はこの能力が弱い自覚があるが…。WMの話でADHDとも関わる問題は注意と集中の能力である。そして、このコントロールする私の意志の問題が焦点なのでは無いだろうか。

 

この私の干渉する能力が低いとか、そういう問題なのかもしれない。少なくとも状況に流され熟慮できず自分をコントロールできないような状況は、この私の制御の能力=意思決定の能力が弱いのだろう。

 

 前頭前野の問題や、脳の機能的な問題によって、この統制の能力が落ちると、責任能力が低下するなど、感情に振り回されやすく直情傾向に(客観的になれなく)なるのではないだろうか。

 

認知症も似たような問題があるのかもしれない。発達障害には易怒性の問題がある。脳の全般的な機能が害された結果として、前頭前野の機能に問題が生じたとして、感情や意志を客観的にモニタリングし評価する能力が低まるのではなかろうか。

 

私自身は覚醒が悪いという話を聞くが、この覚醒というのが自分を積極的にコントロールできるような脳の状態を意味するとすれば、ADHDの問題なども理解し易いと思える。過集中もやはり客観化できずに物事に没入してしまう統制能力の弱さから来るものだとも思える。