LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

多数派の人のための学校と社会だから

学校が辛くても卒業するまで耐えればいいんだ…

 

と自分を納得させることがあった。けれど、卒業後の社会もまた集団生活であり、その集団は多数派のシステムで成っている。左利きと右利きの違いのように、左利きの人間はどうやっても無理を強いられる。

 

なんというか右利きのハサミを使っているような感覚、合わない靴を履き続けて靴擦れして痛いとか、そういうズレを日々の生活で味わうことになり、耐えられなくなってしまう。

 

その結果の例えばフリーターとかニートという人も多いのでは無いだろうか。一度耐えられなくなって心を折ってしまえば復帰するのは難しくなる。

 

そういう経験をしてきた私から考えると、厚労省?の「まだ本気出してないだけ」という標語は、この層にいる人たちを侮辱している。ジョークだとしても無理解から来る言葉だし、どうでもいいような印象を受ける。なぜニートになるのか、と言えば、そこには少なからず不適応の問題があるのでは無いだろうか…。

 

なんでも「甘え」で片づけるのは「ゆとり」で片づけるのと同じである。日常の不満を呟く程度なら未だしも、仕事で使っていい発想では無い。

 

「生きることに向いていない」と言って死んでしまった人の印象がずっと心に残っている。人間主義的な理想は、そういう人達でも「生きていていいんだ」と思える社会システムを構築することだろう。

 

そのように生まれてくるよりは、遺伝子操作されて資本主義社会に合う様に改変された人間性で最初から生きられた方が幸せなのかもしれない。けれど、人間を社会の都合に合わせるそれはディストピアというべきものだろう。

 

社会のために人間が要るという状況は転倒しているからである。例えば、それならロボットで十分だろう。要するにロボットが人に取って変わっても問題は無い、ということになる。人間なんて不必要になる時が来るのだ、という人がいる。

 

けれど、それは間違った考えである。社会のために人間が要るのでは無く、人間のために社会があるのだから。

 

人のための社会、だから、ロボットもまた人のためにあると主張することができる。社会も人のためにあるのだ、という論理をかざせるのであって「社会のために人間が要る」のであれば能力的に不要にもなる。

 

ロボットの問題に関して重要なのは、この点を如何に明言しておくのか、ということだ。前提として、人間社会なのか、社会に住む人間なのか。要するに中身が大事なのか、箱が大事なのか、ということである。箱が大事だ、という論調は強い力を持っているように見える。

 

けれど、

箱は何のためにあるのか。中身を保護するためにあるのである。「箱が大事だ!end」になってしまい「何故箱が大事なのか」という前提に思い至らなくなってしまいがちだ。

 

どれだけ機械が優れようと、前者の前提(人間という中身を保護したい)の上に社会が成り立っているならば人間が自身より優秀な存在に脅かされることは無い。

 

というか、そういう前提を立てないと「社会のための人間」を作り出そうとして社会ありきの優生学を語り出すし遺伝子改変なんてしようとするのである。

 

 そして、本当に守るべきは中身なのだ、ということを見失った社会では個々の「私」は大切にされず被害者になるのである。