LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

人間は傲慢であるという発想自体が傲慢である

タイトルは「神なんていない」と書こうかと思ったのだけども。

まぁ、例えば「人間は傲慢である」と言う時、これは「人間は傲慢ではない」という命題と遂になるわけで。

 

それは傲慢 or 傲慢ではない という問いを向ける。つまり、どちらかで無ければならない。「神はいない」という時、問題は神はいる or 神はいない という二択だということを暗に示している。

 

ゼロ=0という数字を考えた時、0は在る。けれど、ゼロの本当の意味は無である。要するに否定文はそれ自体存在を一部認めてしまうのだと思う。

 

神はいない といった時、暗に神の存在を仄めかすし、人間は傲慢ではない といった時、人間の傲慢さを仄めかす。何れにせよ、これらの否定文は人間が何か特別の地位にあるということを仄めかしていると思う。

 

これは言葉の持つ特性という気もする。冤罪に問われたとき「私はやっていない」という言葉は暗に私と問題との間に関係があるかのように仄めかしている。例えそうでは無くとも。だから、「私はやっていない」という言葉を口にすること自体がそもそも不適切に思えるのではないだろうか…。

 

最初「神なんていない」というタイトルにしようかと思ったのだが、その辺のことを書こう。人間は「神はいない」とか「神はいる」という。ちなみにここでは、この神というのは人間を特別な存在として扱う者である。

 

人間に窺い知れない問題があるという意味で「神(上)がいる」ということはできると思う。宇宙の向こう側の問題や無という問題など、存在自体がどこから来ているのだか理解できない。死んだら我々の意識はどうなるのだろう。この意識はどこから来るのだろう。とか、人間が存在的に窺い知れない問題があるだろう、という意味で、それを私は個人的に神的だと呼ぶ。神秘と言っても良いかもしれないが。

 

老人や女神という姿で表現される神という存在は人間を特別扱いしようとすることの結果である。所謂、キリスト教的な価値観が下敷きになっている神は人間を特別扱いにする。

 

けれど、その特別扱いこそが問題で人間は人間自身を差別するようになった、と思う。それが顕著なのは障害者差別である。欠失=不完全であることがイケないこと・人間でないこと、のように疑われる。

 

理性的で無いことが「人間では無い」と疑われる。犯罪者は「人間では無い」というように。この人間=特別であるという価値観が「普通」や「常識」という枠に嵌らねばならないと個人に要求するように思える。特別で無ければならない、という責務である。この特別とは「普通である」ことであり「他人から認められる人間であること」である。

 

それが「人間である条件」であり、そこから外れると「人でなしになる」つまり「人」という特別な存在では無くなる。その時、私は「畜生」になるのかもしれない。

 

どちらかというとこうした考えが個人の中に道徳観念として埋め込まれている場合に懸念を感じる。「良い子でなければならない」とか、その手の強い思い込みは根底には「特別で無ければ人で無くなってしまう」というような強迫観念があるのかもしれないし、他人にもそれを要請するものであるのかもしれない。

 

けれど、人間は特別な存在ではない。つまり「良い子で無くてもいい」し「常識が無くてもいい」のである。「いい」とは「問題ない」というよりは、それで「人間では無くなるわけではない」という意味である。そこに恐怖を感じるなら。

 

ゲームでよくあるのは「殺人を冒すと人では無くなる」というものだ。けれど、殺人を冒したところで「人間では無くなるわけではない」。私たちは何をしたところで、人間を辞めることも出来なければ一線を越えることもできないのだ。

 

私にとってはそういう認識は大切であると思える。別に、それで善悪が語れ無くなる訳では無い。

 

多様性という言葉で「何でもアリ」みたいな風潮が見受けられるが、それで善悪が無くなるわけでは無い。善悪もあるし快も不快もある。けれども、正義で無く善くも無いから人ではない、ということでは無く、ひっくるめて諸々が「人間」という範疇に含まれる問題なのだ、という話に過ぎない。

 

私やあなたは「人間」のどこかの範囲に含まれているだけで全てを背負い込む必要も無い。全ての要素を満たす必要も無い。ざっくりと言えば、人間と言っても様々であるというのに過ぎない。多様性とは人間の可塑性の話であり「そうなり得る」という感じである。

 

多様性=だから肯定すべし、みたいな屁理屈が使われることが目につくが揚げ足取りみたいなことも多い。ニュースを見れば変な人たちで溢れているように見えるが、個々人は自分はきちんとしよう、と思うのが健全である。