LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

努力すれば誰でも何にでもなれるわけではないということ

個人的には他人と仲良くなりたい、とか他人と上手くやりたいとか思って努力していた時期があったので、今は諦めているんですが、それはキツイ事実だな、と思う。

 

発達障害の人が他人との関りを諦めないんだ!努力し続ければいつか自分のコミュ障は克服できるんだ!と言って頑張り続ける、というのがパターンとしてあるけど、私はそれは無駄だと思う。

 

ハンターxハンターでヒソカカストロ才能の無駄遣い(容量食い過ぎ)と指摘していたけど、そんな感じがする。一生脳は成長し続けると言って、一生毎日脳トレを続けるとか、興味の無い生涯学習を続けるとかいう感じの印象。

 

全くの無意味とは言えないだけで、他のことに時間を使った方が有意義なんじゃないか?と指摘されてしまうんじゃないか、と思う。100mランナーが100m走のタイムを0.1秒縮めるために凄く努力を重ねるみたいなイメージ。

 

私(発達障害者)が他人と一緒に楽しめるようにしよう、とか空気が読めるように訓練しようというのは、小さい頃から慣れさせるとか、そういう順化の目的で無いのなら、私はその努力が報われるのか凄く疑問に感じる。

 

絶対に無理とは言わない(確信が持てない)けれど、少なくとも私の個人的な努力でどうにかできる問題とは思えないな…という。類似する問題としてはアル中や麻薬中毒者が自分でその状況から抜けられるか否か、みたいな。

 

仮に環境に慣れることが可能だとしても、それは凄く長期的なコントロールが必要になることだと思う。それが「私の意志で可能なのか」とても疑問。

 

対人問題を克服したいと思う発達障害者は信じて何やら努力するわけだけれど『アウトサイダー』みたいに方向性が定まらないんじゃないかと思う。

 

コリン・ウィルソンという人の著書『アウトサイダー』で紹介されていたヘミングウェイドストエフスキーニーチェサルトル…とかいう面々を私は発達障害統合失調症等の精神疾患だったのではと思うが、彼らのように哲学的な方向へ行ってしまったりだとか、民間療法的なあるいは神秘主義的な方向へ行ってしまったりだとか、個人的なコントロールで目的を果たすことは難しいんじゃないか、と思う。

 

まぁ、そういうのはここで語ろうとした問題では無いのだが…(笑)コミュ障云々は個人的にはマイナーな話だと思うので。30人のクラスで2~3人くらいしか悩んでいないような気がするし、私レベルで無理な人は中々みないですしね( 一一)恐らく大学や専門学校の就職率が100%にならないのは私みたいな障害者が一定の%紛れ込んでるからだろうと思う…云々。私は自分に対して諦めてるもん。あまりに人と自分が違い過ぎて。客観的に明らかに自分が「普通だと思えない」んですよね(´・ω・`)生きていると自分が異質だというデータばかりが積みあがっていく。恐らく大半の他の人たちはそうではない。それがマイノリティーの世界だし、発達障害者の独自の問題。

 

それは何とも言えない全能感とか、そういう特別な感覚ではなく。確信や感覚的な納得ではなく、データから来る経験則みたいな。フィーリングでは無く知識として、そうなんだ、と思うんで。まぁ、逆にいうとだから「自分は他人とは違う!(きりっ)」じゃなくて「自分は他人とは違うんじゃないか」という疑問形になる。

 

具合悪いし熱があるし「もしかしたらあの病気なんじゃないか…」みたいな情報からくる憶測に似ている。ある少女が海岸から波が引いて水平線が泡立つのを見て、津波が来ると習ったと訴えた。だから津波は来る!と彼女はそう両親に訴えた。と、そういう感覚の「そうなんじゃないか」。そういう「自分は他人と違うんじゃないか…」というのが私(発達障害者)の他人と自分が違うという感覚。

 

まぁ、そうじゃなくて、もっと一般的な個々人の才能の話をしようとしていたので…。医者になりたいとか弁護士になりたい、社会で成功したいとか、頭を良くしたいとか、クリエイターになりたいとか、そういう努力の類の話をしたかったんだった('_';)

 

ある医者のブログで医者になるための努力というより自分の天才を証明するために医者になる(勉強する)という人が多いのだ、と書かれていて、なるほどなー、と思って。「自分の限界に挑戦したい」という人が割とよくいるけど、そういう器を測るための努力をしようとする人が結構いるのかな、と。

 

自分の限界を知るために努力するわけですね。だから、1リットル入りのペットボトルにどれだけ水が入るだろうか、みたいな感覚で努力しているのだろうか、と。才能っていうのは目に見えないので、実際に注いでみないと分からない、みたいなね。注ぐには努力する必要がある、と。

 

努力をそのようなものと考えることもできるのかな、と考えた。そう考えると前提として才能には限界があり、届くレベルにも自分の限界があるという前提になる。

 

世の中「才能は無限で努力するだけ伸びる」みたいに言いたがるじゃないですか?子供向けなのか商業主義的な客引きの文句なのか分からないけど。

 

ただ大人向けに、あるいはシビアな、真面目な話として、現実、どうなのよ?という。例えば、癌で君99%死ぬけど諦めなければ1%奇跡は起こる!とドラマじゃ言いたがるけど「実際もう無理死ぬ」っていう。

 

そっちの現実が知りたいわけで。実益に適うからね。テイルズオブ何とかの大抵のRPGの定番みたいに「人間の可能性を諦めない!」っていうより「人類は温暖化であと200年くらいの内に勝手に滅びますよ(なので今頑張って滅ぼさなくても)」というのを知りたい。

 

じゃあ、そういう話としてどうなのか、というと「努力には才能という上限がある」と考えた方がそれらしいと思うかな。

 

それと努力も「経験値稼ぎみたいにAボタン固定してボタン連打機能コントローラー固定しておけば勝手に自動でやってくれるもの」と考える風潮があるけれど、量的な問題で解決するわけじゃない。

 

リンゴは木から落ちる→重力の発想を得た、というけれど「リンゴはしたに移動した」と受け取ってしまうと、落下という印象を得られない。例えば横に真っ直ぐ移動したのと同じように下に真っ直ぐ移動しただけ、なら「落ちた」という発想にならないだろう。

 

「落ちた」という発想から「重力」という同じ方向へ引っ張られるアイデアが推測されるのであって、単なる移動であると思えば、重力という発想も「落ちた」という発想も出てはこない。

 

努力という時の質感の違いは質感としては、これと似ている。「リンゴが下に移動した」というのが量的な努力。落下したというのが本質的な努力である。「落下とは何を意味するのか」→「重力に引かれたのだ」という部分を了解しないままでは「リンゴが木から落ちた」と正しく理解することはできない。

 

才能という時には、その辺の「了解する能力」が測られて、努力することでそれを具体的に自分の元に引き寄せて来れるか、みたいな話なんだと思う。引き寄せられるだけなら暗記でも何でも良いんだけど、単純な暗記というのは大抵、リンゴが木から落ちようが木から下に高速で移動したと言おうがどちらでも良いみたいな話になるわけで。

 

実際、後者のようにモノを見ている人がいて、それは違うよ、と言って前者の考えを理解しなければいけない。何故かと言って、知識は積み重ねだから、前提の「リンゴが木から落ちた」が間違った認識だと、そのあと積み重ねる努力も間違ったまま積み重ねられるから。

 

ジェンガの積み木を雑に積み上げるとどうなるか、という話である。バランスを取って積み上げても、どこから何の拍子で崩れるか分からない。例えば進化論になぜ気づいたかというと、知識に色々な矛盾が出て来て納得できなくなったのだろう。

 

天動説とか神学的な迷信を基礎にしていると、その部分だけ明らかに理屈が合わないみたいな疑問が出てくるのだろう。だから、発見した人々は正しく努力した結果、そこに辿り付かざるを得なかったんじゃなかろうか…。

 

そして、まぁ、机が真っ直ぐ配置されてないことにストレスを感じるみたいにしてそれを叫ばずには居られなかったのだろう…。努力というのは論理的な辻褄の問題でもある。ロジックの話なのだ。だから論理が物理的現実に噛み合っていないと正しい努力はできない。才能はその問題に対してどれだけ論理的に踏み込む能力が持てるか、みたいな話にもなってくるのではなかろうか…。

 

 

 

 

 

疲れたのでこの辺で一旦終わり*1

覚えてたら続きを書いてみるかも…。

 

 

 

 

*1:+_+