LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

生活を楽にする

色々、生活を楽にしてかなきゃダメなんだろうな、と思う。最近はそうする傾向に世の中があるけれど、ブラック企業的なニュースが時折出てくる。

 

都市から少し離れるとか、そうしたことで古い価値観は当たり前のように残っている時代。「根性論」が蔓延っていた前時代からまだまだ過渡期だと思う。

 

子供の教育でも運動会だとか部活だとか所謂「体育系」のノリが問題視されてますね。こういうのは私が大学生の頃、大学でも体育会系の部活では普通に残っていたと思う。

 

探せば、まだ野球部で丸坊主にするようなところもあるんじゃないかと思うな。そういう場所では、そういう古い倫理観のスポコン的な小宇宙が形成されてたりするんですよね。一方で「そんなことになっているとは…!」と言う人もいる。

 

「そういう世界にいる人は運が悪い負け犬で自分はそうならないようにしなきゃ」と考える人がいたり。「大学の教育で君たちは非正規社員になんてなってはいけない」と教員が話していたけれど、そういうのは世の中の趨勢の話で大部分の人たちは成すすべなく津波みたいに巻き込まれるだけだと思う。

 

だから「他人を蹴落として自分だけは助かろう」という思想が正解だと少なくとも指導するべきではないと思っている。例えば「ブラックな労働に従事するのは努力しなかったせいだ。自業自得」という人は有り触れている。

 

例えば、コンビニのバイトとか。配達員・引っ越し作業員とか。介護労働者とか。じゃあ「それは自業自得で努力して仕事を変えるとか、転職するしかない」という人がいるが、そうするとそれらの職を誰が請け負うのだろう、と。まぁ、それで外国人労働者とか移民とか言う人もいるんだけど。それは現代の奴隷制なわけで。

 

そうじゃなくて、それらの仕事に付いても構わない程度に労働の強度を落として快適に働きやすくするべきだと思う。どの職業でもそうだが雇用問題の多くは高度な専門職とかで無いなら、長時間労働とか重労働とかいうハードルを下げることが肝要。そういう職業でも生活していけるし構わないだろう、と思えることが重要だ。

 

人が来ない、と言っているのは、賃金より労働自体が辛い・苦痛であることから来ることが多いのでは無いだろうか。賃金を上げろ、ということばかり言っているが、問題は「そんな環境で自分は働く自信が無い」というようなことはクローズアップされ難いのでは。

 

どれだけ賃金を貰ったところで、耐えがたい労働にいつまでも従事してはいられないのだから…。

 

人を使い捨てられると思っていると、労働環境を整える意義を等閑にする。そうすると優秀な人材はそういう職場を倦厭するし、そうでない人も厳しい場所には寄り付かない。すると人が集まらないし、定着もしないという悪循環に陥るだろう。

 

全体的に言えば、求人があっても条件が不適切なら誰もその職に就かないだろう。企業は人が来ないと言い、労働者は職が無いと言う。仕事自体の敷居を下げないと両者の言い分は何時までも擦れ違うままだろう。個人的には何時か忍耐の緒が切れてしまうのでは無いか、というような強度の強い労働に従事するのは誰しも不適切だと思う。

 

セーフティネットが無くて職が無くなると死ぬ(生活保護は自分はきっと受けさせて貰えないに違いない…)というような心理的状況で働き、かと言って、労働に疲れ果て、もうダメだ、とその糸がフッと切れた時に、その人の従事する仕事如何によっては、他人を巻き込む恐れもあるわけである。

 

誰しも、そういう状況になってまで働くべきでは無い。断言して良いが、それが当たり前で普通だと感じられる日常に生きる人たちと、そんなに現実は甘く無いという生か死かみたいな意識の日常に生きている層の人たちがいると思うのである。

 

体育会系の人たちの世界なんて信じられない!という層と、そういうのを仕方ない当たり前の現実として感じている層があるみたいに。

 

私自身、耐えきれないような感覚でいつ死ぬのかと思って生きてきたのだが、そういう意識で一生を生きていく人もいるんじゃないか、と思うわけである。バスの悲惨な事故があったが、あの老年の運転手などはそういう生活だったのじゃないかと想像する。

 

「働かざるもの食うべからず」という意識で必死に、翻って言えば、心の余裕なく、毎日を働いて生きている人がいる。その一方で「そんなに必死になる必要があるのか」という人がいるわけである。

 

私は前者のような意識で誰しも日常生活を送るべきではないと思う。それは現実は難民や貧困や障害やリストラとか色々生きる上での障壁があるのが事実だが。憲法の人権の尊重的な話で言っていいなら、そんな悲惨な状況で生きなくても良いし、多くの人がそのように近代社会では救われて良いのだと思う。

 

他人に努力やら根性やらを説きたがる人がいるけれど、厳しい現実に対して、それが現実だという論理を内面化して厳しく生きなければならないのだ、と思い込んでしまったりする。

 

平和ボケの逆というか…。

 

アフリカでは多くの貧しい人がいて…だから私たちも清貧に暮らさなければ云々。みたいな。問題なのはその手の思い込みで自分を貧しいままに保ち、助けを求められず、苦しいと根を上げず、自分を追い詰めてしまうことがあるということ。

 

まぁ、他人に矛先が向くこともあるが。

 

バスの運転手がそうだった、とは言えないし、単に運転中に具合が悪くなって…とか、何かだったのかもしれないけど。そうだとしても、もう彼は現役引退してるべきだったな、と私は思う。離島の辞められない医者の話もそうだけど…(´・ω・`)まぁ、老人は元気一杯。1億層活躍!差別は良く無いですね。100歳でも長距離バスの運転手になれるべきだよね。

 

私はグーグルカーの方が良いけど。癲癇で暴走した人のニュースとか思い出すけど、薬飲めば大丈夫( 一一)昨日飲んだかどうかは忘れたとしても。

 

ちなみに私は自転車の運転さえ責任持てないからしない。車道を走れという話になって「できれば」とか曖昧な話をしているので訳が分からないし。自転車乗るの怖気づいたんですよね(苦笑)

 

発達障害だとADHD的な注意欠陥みたいなのもあって、一度のミスでどうなるか分からないようなことは怖いんですよね。だから、自分の命がどうこうなったり、ましてや他人の命の責任を負うようなことは怖くて出来ない。

 

自分を信用していない、というより、自分が時折、必ず失敗を冒すことを信用している(笑)紙で指を切りたく無い、とか、箪笥に小指をぶつけたくない、と思っているのに、年に一度はそういうことがあるんですよ…( ;∀;)

 

ちなみに何の障害も無い人は割と他人も「自分のように」殆ど失敗なんてしないと思っている気がする。普通の人が持っている他人への信頼感ってそういう「自分と同じ」って感じなんじゃ無かろうか。

 

まぁ、若い人だと特に。リベラルでもそういう世界中の人が「同じ人間」という意識を「何気なく」持ってしまっていたりする気がする。それは安易で大雑把な分別なんだと自覚したいところ。

 

犬猫や人間の赤ん坊、幼児に対して、純粋で可愛らしい性格を一様にしているはずだ、となぜ思うのだろう。彼らを一様に赤子のように接したり、一緒くたに「犬が好き」「猫が好き」「子供が好き」と言ったりするが、その性格には成人と同じように幅や癖がある。

 

それを見ていると、動物が一様に、一緒くたに私のいう「好き」という意味で「好き」だとは言えるものではないんだ、と考えるようになった。少なくとも「懐いてくれるから、可愛げがあるから好き」という理由なら一緒くたにはできない。

 

もう少し意地悪な言葉で言えば「自分にとって都合が良いから好き」ということになる。じゃあ「都合が悪くなったら嫌いなのか」と問うてみた方が良い。「好きだから仕事にする」というレベルの考えをしていて実際にやってみて躓いたとしたら、そういうレベルで「好き」だとか「嫌いだ」とか言っていた、という話だったりするんじゃないだろうか。

 

その「好き」「嫌い」は言葉の「ふさわしい」選択なんだろうか。知識だけはある人、学だけはある人、そういう人は、こうした問題に関しては無知である場合が多いんじゃないかと感じる。

 

数学の問題は解ける。経済に関しては詳しい。けれど物事を深く自分なりに考えようとしたことはない。あるいは深く考えているが表面的には垣間見えないだけなのかもしれない。けれど、その辺の主婦の方が世間話において哲学的な意見を口にしていたりするような気もする。

 

そういうレベルで学識が広い人を私は知りたいと思う。どうもそういう人は私のアンテナに引っかからないか、分かり易い表舞台には出てこない。あるいは自分の考えは秘めていたりするのかもしれない。

 

メンターが欲しいが、いまいち尊敬できるほどの意見を持っているという人を私は見つけられない…。私の見る目が無いだけ、アンテナが無いだけなんだろうが…。

 

一般人の方がきっと私の知りたいような話には詳しいと思うのだが、私はそういう話に持っていけるほどコミュニケーションが取れない(笑)他人との会話の中に得られるものが多いと感じても、その手段を取ることができない我が身の至らなさよ(´・ω・`)

 

良識のある人は良識のある人と付き合う。そこに良識のなんたるかを窺い知ることのできる会話があるのだろうが、如何せん、常識から外れた私にはそこへ辿り付く術はない(苦笑)

 

どこも極端な世界ばかり、距離を置いた良識の地は無かろうか…。