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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

同じ人という基本的な間違い

同じ人間なんだから…という誤解。誤った言葉である。言葉に騙されて、他人を「同じ人間」と思い込む。

 

基本的に他人と私の違い、他国人と日本人の違いは「プードル」と「土佐犬」くらい違うと思った方がいいのではないだろうか。

 

白人と黒人の違いは「ボルゾイ」と「ドーベルマン」くらい違うので、そもそも「同じ人間」というのはミスリードを招かせようとする言い方である。

 

「差別しない」という「主義」「主張」をする時には、この私たちは「同じ人間」という誤魔化しが行われることが多い。「同じ人間」という言葉はいうなれば、小学校低学年の道徳であり「友達100人作ろうね」みたいな話に過ぎない。

 

じゃあ、一人の友達も出来ない子はどう生きたらいいのか、という問いに、こういう大雑把な道徳は答えてはくれない。

 

日本人の中には「宗教は悪」と考える人がいるが、これは私たちが「同じ人間」であるという前提に基づいた話だと思う。けれど、実際には私たちは同じ人間では無いので、無宗教でまっさらに生きていたとしても同じ結論(人生観)に辿り着くということはあり得ない。

 

けれど、それを期待しているから「宗教なんていらない」というのである。それは理想主義的だろう。同じ人間では無いから宗教が必要になるのだ。無政府主義も「同じ人間」であることを期待する以上、所詮、他人に多くを期待する理想主義に過ぎない。

 

個人的なレベルでは親や兄弟に「同じ人間」であることを期待するのはやめた方が良い。だからこそ上手く行かなくなる。

 

「違う人間」と考えた上で付き合い方を考えれば上手く行く可能性は高くなるが「同じ人間」とした上で自然に付き合えるはずだと考えてしまえば、上手く行く可能性は減るのである。

 

「同じ人間」と考えれば他人に大きな期待をすることになる。寧ろ、私と彼とは違うと考えれば他人に大きく期待をすることは無い。過度な期待をすれば普通、外れる可能性が生まれる。つまり、期待を裏切られる。けれど、それは自分の想定が間違っていたからである。

 

つまりは自分のせいだ。正確な想定をしなかった自分の失敗である。期待して裏切られるとしたら、それは結局は間違えた自分の責任を他人に押し付けるのに過ぎない。自己正当化である。

 

「違う人間」という言葉にネガティブなイメージは必要じゃない。ただ事実として「異なる」というだけ。どう異なっているのか区別していく中で、人はより賢くなっていくのである。

 

これが基本であり「同じ人間」と考えると他者理解の妨げになる。思考停止してしまう。そこからの成長は無いのではないだろうか。

 

例えば、移民問題の…難民問題の本質は「違う人間を受け入れるか」ということであり、ずっと「同じ人間を受け入れることだ」と考え続けていたところに問題があったと思う。

 

彼らが自分たちとは色々な意味で違うのだ、という前提でそれを受け入れるのならまだしも、その点が「同じだ」と言って分かっていないのに受け入れれば「こんなはずじゃなかった」と言い出すのは必然だった。

 

どんな差別問題でも基本的にそこを「同じ人間」という言葉で隠蔽する。隠す。騙す。だから「こんなはずじゃなかった」と言って、拗れる。自分とは違う、異なっているのだと覚悟して関わっていくのと、隠されて関わらされることとは随分違うはずだ。

 

その辺の認識で意固地に「同じはず」と信じるべきではないと私は思う。違っていて、どうして、どのように違っているのか、分かった方が良いのではないだろうか…。