ベジタリアン、ヴィーガンという話があって、まぁ、最終的に殺生は良く無い、という話に行きつく。
そういう意味での菜食主義は平和的だと思う。「あらゆる生物を殺すことが良く無い」と主張するなら、人間もその中で守られるだろう。
現実的には脊椎動物とか、そのくらいかな…。実害がある生物は殺さなきゃならないってことがままあるし(´・ω・`)なんかそれだけで「犯罪者は死ね」が罷り通る気がしてきた…。
まぁ、脊椎動物は…。鹿?…あぁ…。鹿肉って美味しいのかなと思って。ヘルシーらしい。
海洋資源も減ってるし、人間自体が鹿みたいなもんかもしれないですね…。土地を枯らす。鹿を減らすなら人間も減らさないとなぁ…。
今生きている人に死ねというよりは、これから生まれて来る人を増やすとか減らすとか、そういう調整が必要。移民とかで調整しようってのは微妙だと思う。これも地産地消。日本の川にブラックバスを放流するな、みたいな話で…(´・ω・`)原始林を人工林にしちゃうみたいなね。そういう急激な変化は生態系を破壊するんで長期的に影響が出ちゃうわけですよ。
まぁ、破壊された結果がドイツというか…。短期間でね。同じ人間じゃないから適応に苦労しなきゃいけない…って話。受け入れる側も。色んな意味で。
そういう時に、同じ人間と思うよりは多かれ少なかれ「異なる人間」だと理解した方が個人レベルでも生き易くなりやすいんじゃないかな。ちなみに学生の自殺とか多かったらしいですが、彼らも「みんな同じはず」とか思わない方が良いですね…。「なんで私だけ…」と思うとショックで衝動的に死んだりするので…。
「みんな〇〇であるべき」が「それぞれの宿命がある」ということを見失わせるし、その中で自分が不幸に見舞われる可能性も、その運の悪さも受け入れることができなくなる。
前に「努力は才能の証明だ」と書いたけど、生まれながらに人は平等じゃない。才能も環境も差がある。伸ばせる才能の量は努力で多少、上下する。個々人ができるのは「人事を尽くして天命を待つ」ということに過ぎない。天命(才能や運)の部分はどうしようも無い部分もあるよ、と。事故で死んだり。
と合わせて、二つ覚えておくと良い気がする。若者はね。
…
人権がどうこうっていうのは同じ人間だからじゃなくて、カテゴリーとしての人種(そしてその人権)は可能な限り守りましょうみたいな話で。平等だからと思いがちだけど。異文化・異人種でも人間なら人権がありますよ、的な。アイヌとかインディアンとかさ。日本人は彼らに「自分と違うから」「同じようにしないから」人権なんて無いと考えがち。でも人権ってそういうことじゃないので。
その辺がザックリ騙られて庶民感情と一緒くたに括られるから誤解しちゃうというか…。感情論とごっちゃになってる。文化相対主義とかそういうのって、ごっちゃにしちゃダメなんですよね。分かり合わない奴は敵、共存の必要無し。こういう考え(´・ω・`)分かり合えないじゃない、分かり合わない、だからね。基本的にこっちに寄れ、って言ってるわけで(苦笑)俺達の文化こそが正しい(笑)
思うに、そういうのが日本人(社会)には多いですよ。悪癖というか…。同調圧力というのか。でも、そういう風潮に少なくとも追随しない方が良い。私は違うけど、楽なんでしょうね…そういう処世術が。善悪とか正義とか考えたく無いし(笑)疲れるから。
私は「みんなに合わせとけばいい」みたいのが基本的に無理だったのでわかんないですけど。で知らず知らず、そういう考え方と生き方が染みついてしまう、というか。
個人の責任にされることが多いですけど、時代の犠牲者みたいな部分は否定できない気もする…。まぁ、責任なんて便宜上の概念だと思いますが。
「善悪とか疲れるから考えたく無い」
年取ってくると多分こうですね(苦笑)
私も昔は「哲学者になりたいな」とか「人間とは考える葦である」とか「我思う故に…以下略」思ったんですが、最近、ふと自分が考えること嫌いなんだなと気づいた(笑)
発達障害だから人より考えざる(悩まざる)を得なかっただけで、強いられてただけだな…っていう(´・ω・`)
だから例えば、劣等感で悩まざるを得ないとか、それでグルグル思考を巡らせてるのを自分が思惟しているのだとか考えるべきではない。それが他人に対して先立っているとかね…。自分は他人とは違う次元の存在…!的なノリに。。。第三の目(サード・アイ)とか開きかねないからさ。
なんか生きてる実感が持てないから、逆に考える間もないくらい必要に迫られて必死に生きたいって人がたまにいるけれども。それって多分疲れちゃうよ、と思う。なんか私らは普通の人と違って、そうやって余裕を失ってくんですが…(´・ω・`)
他人との違いと適応障害と悩みにすり潰されてく感じに。。。常に張りつめてる感じの人がいたとして。そういう生き方は現在進行形で疲れてますよ。
本人は疲れてることに気づかないんだけれどもね。まぁ、それは思うに防衛機制みたいなものであって、火事場の馬鹿力は常に出すものでは無いから良い状態じゃ無いんだろう。
そこからじゃあ疲れてるから休みたまえ、って言って簡単に切り替えて休めるか、と言うと多分そんなに簡単なことでは無いだろう。じゃあ、どうしろというのか、と言って残念ながら答えられないんだけれども。
全て投げ出してしまえ、と言って、できるかどうか分からないしね。私は投げ槍な感じだけども。それは私のやり方であって、他人は社会の問題とか健常者と対峙したいという人もいるだろうし。
具体的には、恋人とか結婚、友達とか。孤独のままじゃ嫌だと思って、あるいは自分が健常者と対等になりたいと思って、障害を克服したいと思って頑張る人もいるかもしれない。それについて私は疲れるだけだからやめとけば、とはアドバイスし難い。
私はやめとこ、と思ったけれども。孤独でいいやと思って。孤独がダメだと言われる世の中だし、私は勧めにくい。やっぱ孤立するリスクもあると思うし。何というか、孤立ってのは友達とかそういう次元じゃなくて実生活の生き死にに関わってくるというか…(´・ω・`;)
引きこもりが餓死していた、とかね。だから「孤独でいい」と言っても「孤立」すると実際、寿命が減ると思うので勧められないというか…(´・ω・`;)ただ、現実、素直に生きると孤立するんだろうな、と思う。そこは、公共のサービスだの、何らか繋がらないとダメだと思うんだけど、個人だけの問題じゃ無いので。
前にも老人が「生活保護を断ってホームレスになって自殺した」という話があったけれど、孤立すると死ぬというのは、そういう感じ。話によると周囲が差し伸べる手はあったらしいけど、老人は全て断って孤立してしまったのだと思う。
孤独は仕方ない面もあるが社会から孤立すれば死ぬしかないと思う。そこにホームレスでも自己責任で何とか一人でサバイバルする…とか意地を張っても人間は社会の中で生きてるわけで無理。それを既得権益と言っても良いが、それが無いと生きていけない面も人間にはある。
友達とか恋人とか伴侶は難しいかもしれないけど、社会とは繋がってなければならない。それは実益的な問題というか…。生き死にに関わる問題として。セーフティネットのどこかに掛からないと割と死ぬんじゃないかと思う。他人は無関心だけど、無関心は個々の自由を認めるためにやっている節もある。
けど、それで自分で動けない人が孤立死したりという問題で、私とかは実際、死に瀕する可能性がある(*ノωノ)孤独にならざるを得ないとか、でね。そういう人を救い上げるような仕組みがどうも社会で不十分な気がするから、あまり期待できないんですよね。自分で動かざるを得ない。それが当たり前になっている。
それが出来なければ周りの家族が助けるしかない。そうじゃない人が少なからず毎年死んでいってるんだろうなと思うんだけど。自分で助けを求められないし、孤立してしまいがちな人が。
だから、知的障害とかでも私だったら死んじゃうんじゃないかと思って。他人に助けを求めるにもそれなりに頭を使う必要があるので。だから、そういう状態でもしも孤立したら私は生きていけるのかな…とか。まぁ、そういう部分で日本社会の福祉は微妙なんじゃないの?と感じる。
だから、孤独でも孤立は致命傷になりやすい気がする。そういう意味で誰でも生きていける社会じゃ無いんじゃないの?と疑問だな…。多分、普通の人は最低限、最悪、仕事が得られずとも生活保護を受けて生きていけると思っているかもしれないが。そうじゃなくて、私は他人とコミュニケーションを取れなくなったらそれだけで死ぬと思う。そして、割とその敷居は低いのだということ。
自分が他人を忌避するか、脳の問題などで、能力を喪失すれば、そして助けを求められる人ないし家族がおらず孤立していれば、それだけで死んでしまえるだろう。恐らく、そういうことにちょっと唖然としてしまう…(´・ω・`;)
件の老人も言い方を変えれば受け取らなかったというより彼に生活保護を受ける能力が無かったということである。そして、そうなれば庇護を受けられずに死ぬ。これを最後のセーフティネットだと仮に呼ぶとして、生活保護を受け、かつ、それを使うだけの最低限の能力が無い人は死ぬ、ということである。
普通の人にとって、健常者にとっては、それは最低限当たり前にある能力なのかもしれない。けれど、そうでない人もいる。私はそういうことを割と容易に想像できる。まぁ、多分、そう考えるとこれが流石に最後のセーフティネットなのか定かでないが…。
一度、社会にしがみ付いて自分が生きていること、に気づいてしまうとこの社会は不安定で怖い気がする。
お腹空いた…(´・ω・`)