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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

発達障害は診断されるべきだろうという話

精神科医の人のブログなんか見ていて、なるほどな~、と思って読んでいる。人によっては、あまり発達障害の診断をしたくないという人もおり。

 

まぁ、一障害者の意見としては、診断は欲しいと思う。発達障害は思うに「治療の対象では無い」からである。これは障害であってバリアフリーによって対処されるべきだと。

 

だから診断以降は精神科医の出る幕では無いのだが、社会に例えば「車椅子」のような存在が無いために、適応に必要な補助を受けられないのだ、と。

 

だから、発達障害者は言わば歩行できない人が地べたを這いずるように、あるいは匍匐前進で這って歩かなければならず、かつ「他人(健常者)と同様に評価される=競争しなければならない」ことになる。

 

「診断しない場合」とは、その世界で仕方ないから何とか生きろと放置することであり、私はそれが可能だとは思えない一人である。多くの発達障害者がそうすると人生から脱落するのでは無いだろうか。それを淘汰と呼んでもいいかもしれないが、当事者としては…淘汰される側としては無慈悲な話である。

 

まぁ、この場合、医師は併発した鬱病の治療等はできても、それ以外はノータッチであり何もできないのである。実際、何か出来るとしたらそれは社会側であると思っている。

 

認知症の老人を医師に見せて薬付けにして意識を覚醒させ、放置してあとは本人の頑張りで適応してくださいねというのか、と言えば分かるだろうか…。

 

この発達障害者に強いられる現代社会への「適応」を「リハビリ」のように考えられているとしたら、それは違うのでは無いだろうか、と私は思う。感覚的には震災からの避難生活を死ぬまで続けるというのに等しいんじゃないかと想像する。

 

まぁ、義務教育が私にとって大体そういう感じであった。3年だかで卒業できるんだからそれまで耐えれば…というのを、結局はその後の人生でも続けなければならない、みたいな。

 

だから「あ~…そんなの無理です」という感じで切れちゃうんですね。それに一度耐えられないな、って思うと、そこから生理的に無理。ってなっちゃうんですよ。

 

発達障害者の被害者意識=自分は特別というのは、そういう世界観から来るんじゃないかな。私と社会。私と普通の人。私と他人。私と学校。は違う…と。住む世界がね(´・ω・`;)

 

じゃあ、次のステップが「学校という呼び名が会社に変わっただけ」…なら私には無理でしょ、という。なんかあそこ信じてる宗教が違うんですよね(苦笑)それを「私は特別=他人とは違う」と思っている。

 

私はキリスト教徒だし、みんなはイスラム教徒でしょ?みたいな。例えばですよ。学校を卒業しても会社に入っても同じですよ、と言われる。

 

まぁ、だから「そこじゃない場所へ行ってもいいよ」という許可が欲しい。割とどうしても。「特別支援クラス」でも「自宅へ引きこもり」でも「作業所」でも良いのでイスラム教徒は無理。信じるものが違い過ぎて居場所ないよ、と。そういう意味で私は「特別扱い」されたい。でもそこに行くには特別な通行証が必要なわけですね…。逃げ場です。要は。

 

親が金持ちなら理解があれば障害者なら云々…。まぁ普通は許されないよね、と。でも、どうしてもそういう層へ移動したい。→「引きこもり」とか、って私はそういうイメージなんですよね。違う人もいるだろうけど。

 

一方で、自分は「障害者じゃない」と認めたがらない人もいる。私の兄弟が丁度そんな感じです。プライドが高かったりしてね。私は普通。周りの環境が悪かったor悪いだけ、みたいな。

 

親が学校が社会が悪いのであって、私は何にも悪く無い。という…感じなんじゃ無かろうか…。分からないではない。昔、自分が発達障害だと行きつくまでは親や環境、育てられ方が悪かったのではないか、と私も考えたから。

 

某中学生じゃないけど、発達障害だと親も発達障害系でそうすると環境が良く無いでしょう。だから、親の「育て方」のせいだ、と考え易い。

 

けれど、人によっては酷い環境でも「まとも」に育つという。結局のところ「脳」という器官の問題では無いか。

 

けれど、その結論に中々達しないのは「脳」=「私」だと考える信仰があるからじゃないかな。「脳」の異常に人は本当に自分では気づき難い。それは自分自身だと考えているから。思考=私。だから異常者は異常だと気づかない、という。普通の人も自分が普通だということにやはり気づかないのだろうが(´・ω・`)「私は私」そうでしょ。そんな感じですよ。

 

だから発達障害の私は私の運命についてどうすることもできなかったと考える。また鬱病の私に対しても「その思考に対して」どうすることもできなかったと考える。私が私だから。思考が私だから。

 

とは言え、他人にとっては違う。「アナタ頭オカシイデスネェ」と言ってくるでしょ(笑)いや、私は私ですけど。と思うんだけれども。まぁ、だから自己否定ですよ。私頭オカシイ…って思う時は。私の脳が部分的にオカシイorおかしくなった、とは思わない(´・ω・`)私という人格が、人間が否定されたんだ、と思う。

 

同時に私はやっぱりバカッターを見て「こいつ頭おかしい…」と思うわけですよ。私は私自身ではなく経験を客観的に見て「私は発達障害ではないか」と考えたし、他の人も他人から「お前アスペじゃね?」と言われたりして気づく。

 

逆にいうと自分ではそのくらい気づけない、のかもしれない。私は私過ぎて気づけない。だから、人格否定するな!みたいなノリで「障害者じゃない=馬鹿にすんな!」と全力否定するのかな、と想像する。

 

いや、聞いた話ですよ。そのくらい受け付けない人もいるらしい。私は他人との違いに悩んでいたし自分がおかしいと思っていて、かつ私が悪いと罪悪感を抱いていて、けれど、どうしようも無いんじゃないの…と思っていたので、診断を受けた時に「そうか~」と思ったけど。

 

そういう経緯が無い人は「馬鹿にされてる」と思うかもしれない。人格否定されてる、と。私は元から「私はいない方がいい人間ナンダ…」と思っていたから「はぁ…」という感じだけど。

 

まぁ、私からすると診断された方がいいと思う。適応できている人に診断が必要だとは思わないけど、人格否定しちゃってる人には「それって障害ですよ」と教えた方がいい。

 

社会生活を考えた時の問題があるんだろうと思うけど、私は多くの人が診断されない場合、脱落しているんじゃないかと思う。少しでも適応できたケースは稀で、殆どは診断されないことで社会から消えてるんじゃないの?と…。社会復帰=社会で働くことはできても、それ以上の数、自殺してるんじゃないの…?

 

仮にそうなら私は当事者としては診断して社会復帰=就職できなくても、引きこもりでも生きられてた方が良いと思う。一人を働かせるために9人死ぬか、10人全員働けないでも生かすか、みたいな…。

 

当事者としては後者ですよ、って話。政治的には前者なんだろうけど。私は殆どバリアフリーの問題だと思ってるから。ディクレクシアというか。社会的障壁の問題。だから治療的に強引に押し込めるべきだとは思わない。

 

早期療育で多少何とかなっても、多少であって、周りと同じにはなれないし社会環境を整える(変える)必要性があることは変わらない。そこを見ずに全て障害者の適応努力に押し付ける感じがして「適応させる」という考え方にはアレルギーが出る(´・ω・`)

 

だから私は発達障害やらアスペやら診断すべき人は診断した方が良いと思うんだけどね。まぁ私は現実がどうのというより理想はこうでしょというタイプだから。精神障害者を雇え、仕事を与えろ、って日本社会はゴリ押しして、その実、各企業でどうにか検討しろとか厄介払い的な気がしてる。

 

作業所も通所者の特性を考えられるとか、そういう人材が現場にいない気がする。じゃあ、適応できなければ理解して貰えないのだから、そこにも居場所は無いよね、という話で。家でも会社でも理解されず。適応しようにも他人に合せることはほぼ無理(とあるブログの専門家は書いていた)。

 

かと言って、私のいう「社会が変わるべき」というのは、現実的には難しいし、日和見だと思う。早期発見されて満足な療養ができるとか、あるいは50年くらいしたら多少は何とかなると思うけど、成人の私自身はじゃあそれって何ともならないよね、みたいな。

 

そうすると、どこも行き止まりで「何人か死ぬかもしれないが頑張って適応しろ」って方が現実的な気がする。少なくとも統計的な実績は上がる。私からすれば御免ですけどね。未来の礎となって死ね的な感じ(´・ω・`)

 

まぁ、ペシミズムですよ。悲観主義者なんで。だから、私の言ってることは悲観的なバイアスが掛かってると思った方が良いですね。そういう現実認識で私に鬱になるな、というのが難しい気がしている。

 

要は診断=逃げ場が欲しい、ということですね。社会復帰と言っても現実に中々難しい人間である以上、精神障害者に無理に社会復帰を勧めるのでは無くて逃げても良いよ、と言って欲しい。

 

まぁ、ニートや引きこもりに対しても、社会不適応で苦しんでいる人に対しては同じように「社会復帰の場」では無くて「逃げ場」が第一に必要なんですよ。「社会復帰」が何を指すのか分からないけど「不適応でも安心して居られる場」がまずないとどうしようもない、と私は思う。それは子供でも大人でも。女でも男でも。

 

そして、そういう考えが社会にあるということがニュースを見ていても私には見えてこない。草の根で直面して活動している人にはそういう考えがあるのかもしれないが、少なくとも公には見えない。

 

そして、興味も無いんじゃないの、と思っている。私からすると自殺した某中学生はこの問題に含まれる。居場所があれば彼は死ななかった。例えばDV被害女性を匿うシェルターのようなものが、彼に対してあったら。その辺は知識が無くて分からないんだけど。

 

ちなみに人間というのは「いじめ被害」を受けなくても自死する。迫害され苦境に立たされるなら。社会的にそういう立場に立たされる弱者というのは「いじめ」られなくても自死する。まだそういう意識は世間にシェアされてないな、と共有されてないな、と思う。

 

「いじめ」が犯罪だとか、体罰が暴力だ、という意識も私からすればここ10年ほどの変化で、上述したような話も世間で共有されていくべき人権意識なんじゃないかなー(予想)と思う。

 

ちなみに昔は許された、というなら1世紀前は許されたと言えば大抵のことは許されるんじゃないかな…(怒)ネットがモラルを下げているという話もあるけど炎上しても良いと思うんだよ(´・ω・`)多分、モラルは情報共有で寧ろ向上している面が大きい。

 

空気読めないのもいるけどね(ブーメラン)(*_*)