LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

雑文

自己啓発系の本は「なりたい自分になれる」と謳う場合があるけれど、私は「三つ子の魂百まで」と思う。

 

The leopard cannot change his spots.(ヒョウは斑点を変えることはできない)三つ子の魂百まで - 故事ことわざ辞典

 

この間書いた「ガンダム」の例え。

 

ジムがガンダムになることはできない。ジムのAceパイロットになるのがせいぜいで、ガンダムのAceパイロットには勝てない。

 

自分を変えられるレベルは「パイロットとしての腕前」までだと思う。自己啓発系は「ガンダムにだってなれる」と謳う場合が多いが「自分は自分でしか無いのだ」という、本質を捉え損なうと、努力は無駄に終わる。

 

「火を消そうと努力していたつもりが火に油を注いでいた」

 

なんてのは良くあること。したがって努力自体は礼賛(らいさん)すべきことでは無い。評価されるべきは「どのような行いをしたのか」。最近は「努力して詐欺で稼いだ。この金は俺の努力の賜物だ」という人がいる。努力は何ら礼賛するべきことでは無い。

 

「火事を消すために僕だって頑張ってガソリンを撒いてたんです!」という人を「よくやった」と褒める者はいない。一般的に。もしかすると全体の被害を食い止めるために、周りの長家を壊す的なアレがあるのかもしれないが…。

 

「結果が全て」ということではなく「目的」に対して「適当な判断」や「効果的な対処」を行えたのか?ということである。礼賛すべきはそちらであって「努力」では無い。

 

その辺りは少年漫画的な頑張れば気合でどうにかなると過程や論理がはぐらかされている点が害悪だと思う…(-_-;)

 

発達障害者の親が言った。

 

「私はこんなに親として頑張ったんです。」

 

それは普通の親なら当たり前にやることであった。要するに、私は親として「普通の子供にやるように」努力した、というのである。

 

けれど、分かって貰えるだろうか。それは「普通の子」の育て方で「発達障害児」に対する育て方では無い。ここでの問題は親を責めることではない。「その努力じゃ的外れ」ということである。

 

親はそれを認めようとしない。「私は努力した」だから「私は悪く無い」と主張する。そして「もう後生だから許して」と言う。「的外れな努力」をしたところで免罪符にはならない。単に憐れみが増すだけで問題は解決しない。

 

だから「努力すれば報われる」という考え方は愚かである。「…けれど成功した者は須らく努力している」の類も同様に愚かである。成功したものは恐らくは「適当な努力」を行ったのである。「的外れな努力」ではなく。

 

どのように愚かなのか、その説明は前述した例で十分だろう。「無駄な努力なんて無い」のだと否定したい気持ちがある。確かに。けれど、それは気持ちの問題である。

 

「的外れな努力」を延々と行って「私は悪く無い。なぜならこんなに頑張ったのだから」という人の何と多いことか…。気持ちの問題である。無駄な努力ごくろうさま。

 

別に冷笑して侮蔑しているわけでは無い。寧ろ、私は被害者である。「的外れな努力」を行わされたし、自らも行ってきた。発達障害者には「適当な努力」を見つけることは殊更、難しい。

 

延々と成果の出ない無駄な努力を重ねるのは、癌に掛かって、水素水を毎日2リットル飲み続けた結果、特に治ることもなく死んだ…とかそういう話である。

 

タイヤを繋いで兎跳びでグラウンド10周みたいな話ならもう少し身近だろうか…。最近も大人に伝統を強いられて子供たちは組体操で無駄に骨折していたようだが…( 一一)

 

多くの発達障害者が健常者のやり方を押し付けられて「甘え」と切り捨てられてきた…(+_+)多くの親が「普通に育てようとして」失敗し「お前の日頃の行いが悪いせい」にされてきたのだ…。

 

世の中というものは、私の見る限り、そういう「的外れな努力」と「努力が実らない悲しみ」ばかりである。

 

馬鹿な人間が報われないのはなぜか。「的外れな努力」ばかりしているからである。努力が足りないのではない。時間が足りないのではない。結果のためにどのような努力を行えば良いのか推測し方法を組み立てるだけの能力が足りないだけだ。

 

自己啓発系の本で気を付けなければならないのは「的外れな努力」について警告せず、努力を結果へ導く方法を教えもしない場合が「多そう」な点である。

 

「このパワーストーンで私は玉の輿に乗れました」レベルの啓発書に「なるほどね!」とホイホイ騙されるようでは、その時点でまともな情報を選り分けるだけの知能さえ足りていないのだから、多分「的外れでは無い努力ができる人間」じゃないことの証明を自らしているようなものだ。

 

馬鹿は「まともな努力」の方法に辿り付けないから馬鹿なのである。周りもマニュアルと伝統以外に何も見えない馬鹿であり、そんな人間には馬鹿の馬鹿たる所以が分からず導くことなどできないので、馬鹿の馬鹿は治らないまま一生馬鹿ばっかとなる。

 

まぁ、そういう「お馬鹿スパイラル」に巻き込まれている哀れな人間悲劇だか喜劇を現在進行形でやってるのが人類であり、私であり、バカッターの誰かであったりするのだろう。

 

そういう哀れな見世物には目を瞑りたいところだが、中々スキップできないものである。というより馬鹿をスキップ=要するに私は即死するしかない。だから私はもう少し賢くなりたいものだが発達障害は馬鹿のパッシブである。呪いと言えば良いのか。

 

嫌だからといって、取り外しできない問題で、上手く選り分けることもできない。そういう自分の馬鹿さは所詮そのような運命である。頭のキレる8等身イケメンになれる未来なんて無い。

 

自分がそういう阿呆の類だと受け止めるところで漸く地に足が付き現実が見え、その範疇で生きる術を探そうとするのではないのだろうか…。見えないのだから自分の姿が何なのかさえ知ることも容易では無かろうが…。

 

外見は鏡で映せても、中身は映せない。だから、馬鹿では自分の馬鹿ささえ満足に見切れないのだ…。冒頭、「ガンダム」の話をしたが、実は自分が何なのかと知ることは人によっては難しい課題なのだと思う。

 

私はずっと健常者のマニュアルで発達障害の私を動かそうとしてきた馬鹿である。周りが私を健常者だなどと騙し続けたのだから仕方が無い。100人が100人そうだと言うのだから馬鹿な私はコロッと騙される。

 

成人して幾星霜。発達障害の適当なマニュアルも未だに見つかってはいない。偉そうなことを言いながら、私がジムなのかザクなのかすら定かでは無い。とりあえず「まともではない」というだけだ。そう言ったら医者に叱られた…。だから、言い直せば、私は「健常者」では無いということである。

 

発達障害など、他人から見ても難しいというのだから、自分から見ても他人から見ても良く見えないそれを、これがどう違うのかと、馬鹿な私に察しろと要求する現実は酷だ(´・ω・`)

 

全く馬鹿馬鹿と…言うは易しである。生きるのは難しいし苦しいのだ。